2008年4月28日月曜日

第四十一段 「自己責任論」の矛先

フリータやニート、ワーキングプアと言った若者に係る経済問題が云々される時、決まって出てくるのが「恵まれた環境下でろくな自立意識・就業意識を持たない若者」を指弾する「自己責任論」である。要するに「真面目に働こうという意識がない以上、今の悲惨な状況は自業自得だ」という非常に荒っぽい論である。一方で高齢者の悲惨な状況について、「自己責任」は問われることが不思議と無い。むしろ公共部門を軸として国民全体で高齢者が安心して生活できる環境を整えようとの声が専らである。そしてその論調の延長線上として公共部門に於ける社会福祉費の削減が声高に非難される。

しかし、ここで考えてみたい。高齢者のいわゆる「悲惨な生活状況」こそ自己責任ではないのか? そもそも公共部門が社会福祉費削減に走りだしたのは、財政の持続可能性が危機に瀕しているからである。何故か? 

第一に挙げられるのは、第二次大戦後以来、無駄な公共事業に象徴される放漫財政や談合に代表される高コスト体制・財源の中間搾取体制が維持され続けてきたからである。そして、それは何も一部の政官財の人間が独走して作り上げたものではない。いわゆる「陳情」や選挙といった回路を通じて地方住民を軸に広いコンセンサスの上に成り立っていたものである。つまり、現在高齢者となっている人々が積極的・消極的に支持してきた政策を実施してきた果てに、社会福祉費を削減しなければどうにもならない所まで財政が追い込まれてきたのである。なのに現高齢者が公共部門の放漫財政を支持・黙認し続けてきた「自己責任」を問う声は寡聞にして聴かない。
第二に挙げられるのは、労働人口の減少化傾向により、結果として巨額の社会福祉費を支えられるだけの歳入確保が難しくなったからである。何故に労働人口が減少したか? それはまず少子化がある。近世以降のヨーロッパ諸国の例を見れば、経済成長の進展に比例して少子化が進展することは十分予測できた筈である。ならば対策として、今まで労働市場に参入してこなかった女性層の掘り起こし、家事や育児と言ったシャドウ・ワークの負担が女性にのみ集中しないような社会式・制度の構築といったことを考えることはさして困難ではない。しかし現実は高度経済成長とその下でしか存在し得ない「一方が労働、一方が家事」という家庭構造が永遠に続くという国民的前提で進行し、その果てに少子化 と不十分な女性の労働市場参入によって、公共部門の歳入減をもたらす一因となっている。だが、少子化という問題に目を背け続けてきた現高齢者の「自己責任」を問う声も寡聞にして聴かない。

若者の「自己責任」を問う声は大きいのに、現高齢者の「自己責任」は不問に処す現在日本の政治やマスコミを見ると、この国の視線が少なくとも未来や変革に温かいものでないことは一目瞭然である。そんな国に自分の未来を全幅の信頼を置いて託すわけにはいかない、と20代後半の管理人は思うのであった。(そもそも、「自己責任」という言葉というか概念自体、往々にして様々な事象を個人的なものに還元してしまい、結果、その裏にある社会的構造というか経済的構造といったものへの考察を阻害してしまいかねないので、あまり安直に使うべきものではないと思うのですが・・・)