2008年6月18日水曜日

第六十八段 音速の遅い読書『保元物語』

今回の音速の遅い読書で取り上げるのは、『保元物語』(岩波書店 1934年初版)。
書誌的な情報としては、1156年に勃発した「保元の乱」とその前後の事情を扱った軍記物語であり、成立は13世紀前半頃、作者は諸説あるものの未だ定説はない(その他詳細についてはwikipedia参照)。

そもそも『保元物語』で取り上げられている保元の乱とは、後白河法皇を中心とする勢力と崇徳上皇中心とする勢力が朝廷の主導権を賭けて行った武力衝突である。この乱以後、桓武平氏と清和源氏を中心とする武家勢力が政治の表舞台に登場することになることから、13世紀の史論書『愚管抄』では保元の乱を「武者ノ世」の幕開けとして位置付けている。

そうした基礎知識を踏まえて『保元物語』を読むと、これが単なる古典文学としてだけではなく、ちょっとした戦略論、あるいはその具体的なケーススタディとしても楽しめることに気付くのにそう時間はかからない。管理人は、それぞれのエピソードの中から以下のような教訓を感じ取った。

1.自身の権益を守るための手駒・カードの調達は貪欲に行え。
→息子の近衛天皇、夫たる鳥羽上皇相次ぐ崩御で、美福門院は権力失陥の危機に立たされる。
 そこで彼女は、自身の権勢が消失しないうちに継子ながらも雅仁親王(後の後白河法皇)を擁立し、
 その後見人となることで権力を崇徳上皇側に奪われることを防止した。
→崇徳上皇側との緊張が高まっていく中、美福門院は当初崇徳上皇側と考えられていた平清盛
 にも自陣営側への勧誘を行うことを主張し、見事平家一門を見方に加えることに成功する。

2.目的達成が最優先。格式・形式は二の次。
3.現場に通じた専門家の意見は尊重するべき。
4.先んずれば人を制す。
→遂に後白河側と崇徳側の武力衝突が不可避の情勢となった時、崇徳側の武将であった源為朝
 は、夜討による先制奇襲攻撃を主張するが、参謀的位置にあった左大臣藤原頼長の「夜討奇襲
 は王者の戦い方としてはふさわしくない」という反対にあって却下されてしまう。
 一方、後白河側では源義朝が同じように夜討奇襲を提案し、これに対して後白河側の参謀的位置
 にあった信西入道(俗名:藤原通憲)は「合戦のことは武士が一番詳しいのだから、その言葉に
 従うのが理だ」と主張し、義朝の提案は容れられる。
 結果、両陣営の夜討に対する判断がそのまま勝者と敗者の分水嶺となる。

この乱では親兄弟や近しい人が敵味方に分かれて剣戟策謀を戦わせている。その中で特に管理人の印象に残っているのが、信西入道と藤原頼長の対決である。頼長にとって信西入道は学問の師であり、両者共に和漢の教養に通じた当代きっての知識人であった。それだけに、多くの漢籍に於いて示される「結果は手段を正当化する」という権力政治の冷厳な現実を自家薬籠中のものとした信西入道とそうではなかった頼長の対照性が強く印象に残る。「べき論」に固執するとどんな目に遭うか、具体例を示して警告してくれる一冊としても読めるかもしれない。