2009年5月4日月曜日

第二百六十六段 音速の遅い読書『劉少奇語録』

今回の音速の遅い読書で取り上げるのは、以下の作品。

劉少奇語録 (1967年)
劉 少奇

現代書房
発売日 1967-10

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この作品は「語録」という言葉が示すように、中華人民共和国の成立と経済の近代化に尽力しながら、権力闘争の達人毛沢東と対立するに至り、遂には文化大革命の嵐の中、反逆者の汚名を着せられて失脚した悲劇の政治家劉少奇(一応、没後11年経過した1980年に鄧小平の手によって名誉回復)の言葉を、彼が発表した論文や著作、講演等から採録したものである。

投資家が共産主義政権の大物の語録を読書録で取り上げるというのも、妙な取り合わせと言われそうだが、経済学者スーザン・ストレンジは「思慮深く注意深いマルクス主義者の分析は、思慮深く注意深い金融保守主義者の批評とあまり隔たっていない」と言っているし、何よりW・ウィルソンは「人を殺そうとしている男からもナイフの研ぎ方を学ぶことができる」と言っている。
巨大国家中華人民共和国の経済近代化に尽力した(そしてある程度の成功を収めた)政治家の言ならば、人殺しにナイフの研ぎ方を学ぶよりも得るものは遥かに多かろう。

そう考えて読み始めた当該作品だが、中々に感銘を受ける言葉が少なくない。
例えば、以下の言葉である。
諸君がある同志を評価し、あるいは批判するとき、ただかれの欠点、誤りを指摘して、かれの全部だとみなすだけでなく、さらにかれの成績、功労、長所および正しい主張をも指摘しなければならない。たとえかれの主張が、わずかしかあるいは一部しか正しくないとしても、諸君は必ずそれを指摘して、抹殺してしまってはならない。

21世紀初頭の世界に生きる我々が、上記のような穏健・実際的な考えを有する指導者を「造反有理」の怒号を以て放逐した紅衛兵の無知蒙昧を嘲笑うことは、一見すると非常に容易い。
しかし、世界的な金融危機の中で、自由主義的な経済思想、証券化や金融工学の進展、あるいは公的部門の民営化を推進した政治家といった、危機の一因となったとされる様々な要素が大きな非難に晒されているのを見る時、世の大勢が、事の功罪を慎重に分別して判断する劉少奇的思考ではなく、一つの欠点を以て全否定の雄叫びを上げる紅衛兵的思考で占められていることに気付かされるだろう。
そもそも、ルネサンス期イタリアの賢人マキャヴェッリは「人間の為すことに最初から完全なことなどあり得ない」と喝破した。だからこそ物事の経営にあたっては、事の功罪を分別して把握し、それぞれの大小を慎重に比較考量する劉少奇的思考が必要となるのだが、現今の状況たるや前述の如しである。
そこで再び考えさせられるのだ。「現在にあって真に紅衛兵の暴挙を嘲笑うに足る人物はどれだけいるのか? 自分もまた紅衛兵と同じ陥穽にはまっているのではないか?」と。

また、次に挙げるのは、以下の言葉である。
闘争は行き過ぎてはいけない。でないと、必ず悪い結果を引き起こし、工場を閉鎖し、倒産し、生産は低下し、労働者は失業しあるいは孤立する。農民と職員は、君たちが間違っていると言う。その時になれば君たちは非常に苦痛になる。その時になって政府に救済を求めようとしても、政府には力がない。君たちが資本家を捕えてきて銃殺にすれば、かれは工場を経営できなくなる。ある労働者はこう言う。資本家がやらないなら、われわれがやる、われわれは組んで合作会社を開くのだ、と。ところで合作会社はいったい開いたのか? というと、たしかにたくさん開いたには開いた。ただし、経営の良好なのは一つもありはしないのである。

何だか米国のビッグ・スリー騒動(現在も進行中)を彷彿とさせる言葉である(ビッグ・スリーの労働者は銃殺とか野蛮なことはしてないが・・・・)。1960年代の社会主義国と似たような事象の発生した2000年代の高度資本主義国・・・・(規模の違いこそあれ)、「陽の下に新しきもの無し」、古人はよくいったものである。
そして日本においては、「労働者が共同で出資して仕事を起こし、経営にも携わる「協同労働」という働き方を支援する法案」が提出の見込みだという(出典:日経ネット)。
1960年代の社会主義国と似たような事象の発生した2000年代の高度資本主義国・・・・(しかも上手くいかなかった仕組みを真似るとは・・・)、「陽の下に新しきもの無し」、古人は本当によくいったものである。

こんな21世紀の世界にも通用する透徹した目を持つ指導者を葬ってしまった事は、間違いなく中華人民共和国にとって痛恨事以外の何物でもあるまい。