2009年5月31日日曜日

第二百八十一段 音速の遅い読書『アナバシス』

今回の音速の遅い読書で取り上げるのは、以下の作品。

アナバシス―敵中横断6000キロ (岩波文庫)
クセノポン
文庫

岩波書店
総合評価 4.5

発売日 2002-07-09
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紀元前404年、オリエントの超大国アケメネス朝ペルシャで国王ダレイオス2世が没するや、長子がアルタクセルクセス2世として王位を継いだ。しかし、才気煥発で知られた王弟キュロスは「惰弱」とも評された兄の即位に不満を持ち、2年の準備の後、遂に兄たる国王に反旗を翻す。

この時、キュロス軍側にはギリシャ全土から参集した多数のギリシャ人傭兵部隊が参加していた。キュロス軍はギリシャ人傭兵団の勇戦と各地諸侯の現国王に対する反感に乗じることで、ペルシャ帝国の西半を手中に収めていく。一方、アルタクセルクセス2世もキュロス軍の動きを座視していたわけではなく、各地に号令を飛ばして軍勢をかき集めていた。

そして紀元前402年、キュロスとアルタクセルクセス2世の両者は満を持してバビロン郊外のクナクサの地において激突する。合戦はギリシャ人傭兵団の威力とキュロス自身の優れた指揮によってキュロス軍優位に展開した。しかし、キュロスが不運な討死を遂げるというアクシデントが発生し、指揮官を失ったキュロス軍は瓦解。勝利はアルタクセルクセス2世の手に帰すこととなった。

この決着によって苦境に立たされたのが、キュロス軍に投じていたギリシャ人傭兵部隊1万数千人である。キュロスが率いていた軍勢は彼の死とともに胡散霧消し、当初キュロスに靡いていた諸侯も、合戦における国王の勝利を聞くや、手のひらを返すように国王側に寝返っていった。四面楚歌が座興に思えるほどの孤立無援。

そこに重ねて更なる惨事がギリシャ人傭兵団を打ちのめす。

オリエント一帯にその精強ぶりを轟かせていたギリシャ人傭兵部隊と正面からぶつかることを恐れるアルタクセルクセス2世は、攻めるなら搦め手からとばかりに、ギリシャ人傭兵団の部隊長たちに対して偽りの和平会談を持ちかける。ギリシャ人側にはペルシャ王の意図を怪しむ者もいたが、結局部隊長たちは「一国の主が神かけて身の安全を保証するというのだから・・・」と和平会談への出席を応諾する。そしてギリシャ側から望み通りの返答を得たペルシャ王は、和平会談に出席した部隊長たちを皆殺しにしてしまう。

敵地の真っ只中で庇護者と指揮官の両方をほぼ同時に失うという絶体絶命の状況に陥ったギリシャ人傭兵団。だが彼らはペルシャ王からの脅迫にも似た降伏勧告をはねつけ、軍中から新たに指揮官を選任し、自らの剣と勇気を以って撤退路を切り拓くという一大決断を下す。

この時、新指揮官の一人として選出され空前絶後の撤退戦に臨んだ一人が、クセノポンという人物であり、彼がその難行軍のあらましを活写したのが、本作品である。

撤退を図るギリシャ人傭兵団の前に立ちはだかるのは、酷暑凄まじきメソポタミアの荒野や氷雪深きアルメニアの山岳地帯といった過酷な自然環境、執拗に追撃を図るペルシャ軍や姦計巡らす行く先々の地元諸侯、その他有象無象の危険たち。まさに耳にするだけで怯んでしまいそうな窮地、死線が十重二十重に張り巡らされた絶対的死地。それらを勇ましいバイアーン(突撃歌)とともに蹴散らしていくギリシャ人傭兵団の戦いぶりは、見事の一言に尽きる。
だが、本書の読み所は戦闘シーンだけでは決してない。数多くの困難に直面して時に動揺する傭兵団を鼓舞・説得するためにクセノポンや他の指揮官がはる弁論もまた、本作品の華である。彼らが兵士に向かって語りかける力強い言葉を目にする時、聞く者に大きな感銘を与えるというオバマ米大統領の雄弁もまた、一代の突然変異というわけでは決してなく、古代ギリシャ以来の修辞術、弁論術の流れの中から生まれたものであることが改めて認識される。

個人的には、クセノポンの以下の言葉が特に印象に残るものであった。
さあ、大将軍ヘラクレスの後に続き、互いに名を呼び励まし合うのだ。今ここで己れの勇気と見事な心ばえをその言動に示して、諸君が自分たちのことを覚えておいて欲しいと思う、人々の心に残すことは実に愉快なことだぞ。