2009年6月3日水曜日

第二百八十二段 音速の遅い読書『ウルトラ・ダラー』

今回の音速の遅い読書で取り上げるのは以下の作品。

ウルトラ・ダラー (新潮文庫)
手嶋 龍一
文庫
新潮社
総合評価 3.0
発売日 2007-11

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本作品の概要を述べると、以下のような感じになる。
2002年のアイルランド・ダブリンで発見された巧妙極まりない新種の偽100USドル札「ウルトラ・ダラー」。その源泉として目されるのが、かつては「地上の楽園」と喧伝された凍土の独裁国家北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国。彼らがアメリカ財務省の鼻を明かす目的のためだけに偽札発行をするとは考えられない。では北朝鮮が「ウルトラ・ダラー」を発行した真の目的は何か?
BBC職員(東京特派員)にして英国情報部員のスティーブン・ブラッドレーの調査は、やがて一枚の大きな絵画を浮かび上がらせる。そこに描き出された構図は・・・・・。

本作品の中で個人的に印象深かった記述は、以下に列挙する二箇所である。

まず挙げられるのが大学時代の主人公スティーブン・ブラッドレーが恩師と「インテリジェンス」について語り合う場面で、恩師が愛弟子に披露したエピソード。
「フォークランド紛争は、ことインテリジェンスのいくさでは完敗だった。機会があれば西アイルランドの崖の上に隠棲したロイヤル・ネイビーの情報士官を訪ねてみるといい。当時、彼はブエノスアイレスの駐在武官だった。アルゼンチンがフォークランドに侵攻の機会を窺っている事実を公電で本国に警告し続けた。だが、誰ひとり真剣に耳を傾けようとはしなかった。優れた情報は凡庸なものたちの常識を超えるからだ。彼は火のような怒りを抱いて職を辞した。情報が無視されたからではない。彼のブエノスアイレス電を後に記録から抹殺しようとしたからだ。」

昔、何かの漢籍で「国が滅ぶのは人材が無いからではない。人材を正しく登用することができないから滅ぶのだ」といった旨の記述を読んだ記憶がある。人材と情報、その用い方の要諦は意外に近い所にあるらしい。

次に挙げられるのが、外交官のあるべき姿勢についての記述である。
三十年の後、それらの外交文書は機密の封印が解かれて、外交史家の手に委ねられ、歴史の裁きを受けることになる。これは外交官という職業を選んだ者が受けなければならない最後の審判なのだ。
歴史への畏れを抱いた外交官だけが、組織内の栄達や目先の政治情勢に足をとられることなく、筋の通った交渉をやり遂げる。その志が公電のかたちをとって歴史に刻まれていく。
(中略)
外交官たるもの、公電を刻みつづけるという営為を通じて、やがて歴史の審判に身を委ねるという覚悟を持たなければ、いつしか自らも、そして国家も蝕まれていく。
    ※(中略)は点額法師によるもの

何となく楊震の「四知」の故事を彷彿とさせる記述である。そしてこの記述、畏れの対象を「歴史」から「良心」や「信念」に置き換えれば、何も外交官に限定されず、もっと広い範囲の人々にも適用できる話なのだろう(自分の胸に手を当てながらそう思った・・・・)。

さて、本作については、著者が専業の作家ではないこともあってか、読む人によっては「状況描写が平板だ」、「ブランド品等の細部の描写・説明が細かすぎてウザったい」という芳しからぬ評価を受けることもある。
だが点額法師個人としては、学生時代に平板極まりない状況描写と時に過剰な程の細部描写では定評のある『二十四史』や現代日本の各公文書、法律文書に接することが多かったため、巷間指摘されるような欠点はあまり、というか全く気にならなかった。(因みに、個人的に最も記述の平板な書籍は『春秋』のような気がする。実際、王安石から「あんなのは官報の切れっぱしだ」と有難くない評価を頂戴しているし・・・・。( ̄w ̄;))

寧ろ、一見すると似たような記述ばかりで取り付く島もないような膨大なテキストデータ等の中から片言隻句を抽出し、その抽出した個々の情報を頭の中で繋ぎ合わせて「あーでもない、こ~でもない」と考え(悪く言えば「妄想」)を巡らすのが好きな人(嫌な表現をすれば「点額法師と同じような人」)にとっては、話題のリアルタイム性なども考慮して十分に楽しめる作品なのではないかと思う。