2009年6月5日金曜日

第二百八十三段 音速の遅い読書『シルクロードの滑走路』

今回の音速の遅い読書で取り上げるのは以下の作品。

シルクロードの滑走路 (角川文庫)
黒木 亮
文庫
角川グループパブリッシング
発売日 2009-05-23

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本書は2005年に文藝春秋社から刊行された作品を文庫化したものである。

本書の主人公は日本の総合商社員小川智。舞台となるのは中央アジアのキルギス共和国。その舞台の上で、主人公とそのチームが、旧共産主義時代の旧弊に辟易し、国際取引に未熟だったり私腹を肥やすことしか頭にないキルギス側カウンターパート達との交渉に憂き身をやつしながら、国営マナス航空との航空機リース取引を成功させるために悪戦苦闘する、というのが本書の概要である。

因みに、本作品の舞台となるキルギスという国は、1991年のソ連邦崩壊の中から登場し、2005年のチューリップ革命で建国来の支配者たるアカエフ大統領が職を逐われ、2009年にはバキエフ政権の判断で911テロ以降アメリカやNATOが対アフガン作戦の重要拠点としてきたマナス空軍基地が閉鎖された、そんな国である。

さて、そんな本書の見所は、順当に考えれば、普段接する機会の無い航空機リース取引(しかも国際取引)がどのようにして行われるのか、臨場感たっぷりに味あわせてくれる所であろう。そして、主人公小川が出会う中央アジアの情景、行き交う諸民族が背負う歴史の重さ、それらの描写もまた作品に対する奥行きを与えている。

だが点額法師には、そうしたビッグ・ディールや中央アジア点描以上に以下の二人の人物の描写が印象深く思われた。

一人はマナス航空の経理部長。といっても、彼に胸のすくような或いは華々しい活躍の舞台が用意されているわけではない。寧ろ彼はキルギスに残る共産主義の旧弊を体現する人物の一人として、事なかれ主義というか責任回避に全力を挙げては主人公たちの取引を妨害する、敵役としての立ち回りを演じることになる。そんな彼の行状は実に腹立たしくも滑稽であり、それに振り回される主人公たちには同情の念を掻き立てられる。
だが、同時に冷静に我が身の所業を回顧すると、経理部長氏ほど徹底的なものではなくとも、大なり小なり自己保身と責任回避を狙った言動に走ってしまった過去の自分の姿が浮かんでくる。その意味で彼が登場するシーンでは、どうしても微苦笑が浮かんできてしまう。

もう一人は、主人公の協力者であるトルコ人ヤシャール・オルグンである。中央アジア諸国はトルコ系民族が多数派を占めており、政治・経済的にトルコ共和国との関係も深い。そんな背景を知っていれば、取引にトルコ人ブローカーが協力者として登場するということも別段突飛な話とも思えない。だが、本書ではヤシャールについて単なるトルコ人というだけではなく、もう少し細かい設定が置かれている。本書の最初の方で何度か彼の出自等について触れる場面があるのだが、そこでは「杏の取れる褐色の大地」が広がる地方の出身でケマル・アタチュルクには冷淡な態度を示す(これだけで、ある程度中東に関する知識のある人間ならピンと来るものがあろう)、という設定がそれだ。
本作品中では、中央アジアの歴史や自然等について細かい知識が色々と紹介されているため、最初に読んだ段階ではヤシャールの来歴も単に異国情緒を催すための豆知識の披露なのか、それとも何かの伏線なのか俄には判断つかず、少し訝しく思って読み進んでいったのだが、最後まで読んで納得した。要するに文中に出てくるヤシャールの設定もまた伏線の一つだったのだ。

果たして小川はリース取引を無事に成立させることができるのか? そしてトルコ人ヤシャールの伏線はどのように回収されるのか? 経済小説としての情報性のみならず、中央アジアの新興国を舞台にした一種の群像劇としても面白い作品である。