2011年5月26日木曜日

第三百六十三段 民主的でない共和国?

「共和」という言葉の意味を「大辞泉」で引くと以下のような記述がある。

主権が国民にあり、直接または間接に選出された国家元首や複数の代表者によって統治される政治形態。少数の特権階級に主権がある貴族的共和制・寡頭的共和制などがあるが、一般には国民の意志に基づく政治が行われる民主的共和制をいう。


現代日本では、単に「共和」という言葉を使用した場合(こと政治分野において使用した場合)、上記で言う所の「民主的共和制」のみを指すことが殆どであるため、それに慣れてしまい、民主的な統治構造を欠く国々が「共和国」を名乗っていたりすると、違和感を覚えると共に「どこがだよッ!」というツッコまずにはいられない人も多いかと個人的に勝手に推測していたりする。

しかし、本当に”共和”国を名乗るのに、民主的な諸制度は必要なのだろうか?

そもそも「共和」という言葉が文献上初めて現れるのは、前漢時代に司馬遷によって編纂された歴史書「史記」内の周王朝の歴史を扱った「周本紀」という部分においてである。

其のあたりの話を以下に掲載する(本文の略、強調部分及び和訳は著者による)。

王行暴虐侈傲,國人謗王。召公諫曰:「民不堪命矣。」 王怒,得衞巫,使監謗者,以告則殺之。其謗鮮矣,諸侯不朝。三十四年,王益嚴,國人莫敢言,道路以目。
厲王喜,告召公曰:「吾能弭謗矣,乃不敢言。」 召公曰:「是鄣之也。防民之口,甚於防水。水壅而潰,傷人必多,民亦如之。是故為水者決之使導,為民者宣之使言。(後略)」
王不聽。於是國莫敢出言,三年,乃相與畔,襲厲王。厲王出奔於彘。
(中略)
召公、周公二相行政,號曰「共和」。共和十四年,厲王死于彘。太子靜長於召公家,二相乃共立之為王,是為宣王。

<和訳>
王(厲王)が暴虐を行い贅沢に溺れたので、国民はこぞって王を非難した。(大臣の)召公が王を諫めて言った、「民は王の無茶な命令に耐えかねております」と。王はこれを聞いて激怒し、衞の国から巫女を呼び寄せ、それに不平を洩らす者を監視させ、報告があれば直ちに名の挙がった者を殺した。不平を口にする者は少なくなり、(密告を恐れた)諸侯も宮廷に参内しなくなった。(厲王が即位してから)三十四年目の年、王は監視の目を益々強めた。国民は言葉を発さず、道すがら目配せを交わすだけになった。
厲王は(不満の声が出なくなったことを)喜び、召公を呼び寄せて言った、「私は不平不満を押さえ込んだぞ。誰も(非難を)口にしない」と。召公が答えて言った、「これは口を塞いだに過ぎません。民の口を塞ぐのは、水を塞ぐより危険です。水が塞がれて決壊すれば人を必ず大いに傷つけます。民の口を塞ぐこともまた同じです。ですから、水を治める者は流路を設けて(水が安全に流れるよう)誘導してやり、民を治める者は民が口をひらいて十分に議論ができるようにしてやるのです。(後略)」と。
厲王は召公の諫言を聞き入れなかった。誰も不満を口にすることが無くなって三年、遂に反乱が起き、その火の粉が王宮にまで及ぶと、厲王は彘という地方に逃げ込んでしまった。
(中略)
(王が都からいなくなったので)召公と周公という二人の大臣が国政を司った。このことを「共和」と言った。共和は十四年に及んだが、その間、厲王が(逃亡先の)彘で崩じた。召公の屋敷に引き取られていた厲王の太子が成長したので、召公と周公はこれを新たな王として即位させた。これが(周の)宣王である。


後になって、日本の江戸時代後期の地理学者箕作省吾が「republic」の訳語としてこの「共和」を充ててしまったために若干の混乱を招くことになるが、上記の「史記」のエピソードからも分かるように、「共和」という言葉の原義は「複数人の協議によって政治が進められること」を指す以上のものではなく、まして、その政治を協議によって進める複数人が民主的な手段で選出されたものか否かという判断は全く含まない言葉なのである(上述の「大辞泉」の説明でいえば、「少数の特権階級に主権がある貴族的共和制・寡頭的共和制」が、「共和」という言葉が生まれた当時の意味に近い存在だと言える)。

従って、民主的な諸制度を欠く国が”共和”国を名乗っても、言葉本来の意味からすれば単なる看板とは言い切れない面があり、同時に、他国人からの「どこがだよッ!」というツッコミが常に正鵠を射たものとなるとは限らないのである。

そして、ここで民主的な諸制度を欠く”共和”国の一例として中華人民共和国を見てみたい。
中華人民共和国の政治状況、当初は毛沢東や鄧小平といった革命元勲の中でも一頭地を抜いたストロング・マンによる鶴の一声で政治が進められてきた。しかし、鄧小平の引退から江沢民、胡錦濤政権と続く中で、ストロング・マンによる統治という状態は影をひそめ、中国共産党を中核に人民解放軍、国営企業等等から構成されるエスタブリッシュメント層内の様々な利益集団、政治派閥の競争や協力で政治が進められる傾向がほぼ定着している。
強権的な王は去り、支配層の中の有力者や有力勢力の協議によって政治が進められるようになったのだ。実に正しい”共和”国の有り様と言えよう。

で、気になって来るのは、支配層内の各グループ、有力者による”共和”が行われるようになった中華人民共和国が今後「人民による共和」へと全面的に移行する可能性なのだが、現時点で、自分自身はそれについては極めて懐疑的である。
まぁ、これについては、後日、ウィットフォーゲルの「オリエンタル・デスポティズム――専制官僚国家の生成と崩壊」等の読書感想を述べる際等にでもまた改めて・・・・・


参考資料
・司馬遷 「史記」本紀巻四 周本紀第四 (台湾中央研究院 漢籍電子文献より)