2011年6月28日火曜日

第三百七十二段 東京電力株主総会があったようで・・・

本日2011年6月28日、東京電力で株主総会が行われた。日本を大きく揺るがせている原発災害のただ中ということもあり、世間の注目も大きかったようで、たとえば共同通信社は以下のように株主総会の様子を伝えている。
東京電力は28日、都内で株主総会を開催した。福島第1原発事故をめぐり議長の勝俣恒久会長が「多大な迷惑とご心配をかけ、心より深くおわびします」と謝罪。清水正孝社長は「かつてない重大な危機に直面」と説明した。
11年3月期決算で巨額の赤字を計上したことに対して、株主からは「全財産を売却して賠償に充てるべきだ」と経営陣の責任を追及する厳しい意見が相次いだ。一部の株主が提案した原発撤退議案をめぐっても議論が紛糾。
株主提案は否決される公算が大きいが、事故の影響が深刻な福島県の南相馬市と白河市が賛成の手続きを取るなど、原発の立地県内からも賛同の動きが出た。

こうしたマスコミ報道の一方で、当該総会に出席した東電株主がtwitterで内部の様子を伝えてくれているのが、今の世の中の面白い所である。今回はそんな呟きや関連報道を見て心に浮かんだ由無し事でも・・・・

まず、前席を中心として一種のサクラとして従業員株主が動員されていたようだが、これを聞くと思い浮かぶのが「従業員株主を前列に座らせてなした総会決議」として知られる判例(最高裁平成8年11月12日第三小法廷判決)。事実の概要と判旨を以下に掲げる(注1)。
<事実の概要>
Y会社の株主であるXは、平成2年6月28日、Yの定時株主総会に出席するため、本社ビルの前で早朝から、Yの原子力発電所に関する経営方針に反対する他の株主と共に列に並び、午前8時の開門と同時にビルに入り、受付手続きを済ませて会場に入場した。
Yは、昭和63年1月及び2月、原発反対派の者に本社ビルを取り囲まれたり、深夜数時間、ビルの一部を占拠されたことがあり、さらに原発に反対する株主グループから本件株主総会の前に1000項目を超える質問状の送付を受けていたことなどから、本件株主総会の議事進行が妨害されたり、議長及び役員席を取り囲まれたりといった事態が発生することをおそれ、Yの株主である従業員らに指示して、受付開始時刻前に会場に入場させ株主席のうち前方部分に着席させた。
会場には株主席として約230の椅子が並べられていたが、Xが会場に到着した時には従業員株主らがすでに最前列から第5列目までのほとんど及び中央部付近の合計78席に着席していたため、Xは6列目の中央部付近の着席した。Xは、本件株主総会において、議長から指名を受けた上で動議を1度提出した。
Xは、本件株主総会の会場において希望する座席を確保するために本社ビルの近くに宿泊して早朝から入場者の列に並んだのに、Yから従業員株主らとの間で右のような差別的取扱いを受けたことにより、希望する席を確保することができず、これによって精神的苦痛を被り、さらに宿泊料相当の財産的損害を被ったと主張して、Yに対し、不法行為に基づく損害賠償(慰謝料10万円と宿泊料10000円)を請求した。

<判旨>
株式会社は、同じ株主総会に出席する株主に対しては合理的な理由のない限り、同一の取扱いをするべきである。本件において、Yが・・・・本件株主総会前の原発反対派の動向から本件株主総会の議事進行の妨害等の事態が発生するおそれがあると考えたことについては、やむを得ない面もあったということができるが、そのおそれのことをもって、Yが従業員株主らを他の株主よりも先に会場に入場させて株主席の前方に着席させる措置を採ることの合理的な理由に当たるものと解することはできず、Yの右措置は、適切なものではなかったといわざるを得ない。
しかしながら、Xは、希望する席に座る機会を失ったとはいえ、本件株主総会において、会場の中央部付近に着席した上、現に議長からの指名を受けて動議を提出しているのであって、具体的に株主の権利の行使を妨げられたということはできず、Yの本件株主総会に関する措置によってXの法的利益が侵害されたということはできない。そうすると、Yが不法行為の責任を負わないとした原審の判断は、是認することができ、原判決に諸論の違法はない。


「事実の概要」を見るにつけ、「電力会社の株主総会は、昔から波乱含みだったんですねぇ・・・・」と改めてしみじみと思われることである。

また、今回の東電株主総会、株主からなかなかぶっ飛んだ「意見陳述」や「質問」もあったらしく、その議事録の内容も非常に気になる所だ。会社法に以下の如くある通り、東電の株主なり債権者になれば何の問題もなく閲覧・謄写請求が出せるのだが、ここはいっそのこと、書籍で出版してくれないだろうか・・・・?w
<会社法>
第三百十八条
 株主総会の議事については、法務省令で定めるところにより、議事録を作成しなければならない。
2  株式会社は、株主総会の日から十年間、前項の議事録をその本店に備え置かなければならない。
3  株式会社は、株主総会の日から五年間、第一項の議事録の写しをその支店に備え置かなければならない。ただし、当該議事録が電磁的記録をもって作成されている場合であって、支店における次項第二号に掲げる請求に応じることを可能とするための措置として法務省令で定めるものをとっているときは、この限りでない。
4  株主及び債権者は、株式会社の営業時間内は、いつでも、次に掲げる請求をすることができる。
 一  第一項の議事録が書面をもって作成されているときは、当該書面又は当該書 面の写しの閲覧又は謄写の請求

 二  第一項の議事録が電磁的記録をもって作成されているときは、当該電磁的記録に記録された事項を法務省令で定める方法により表示したものの閲覧又は謄写の請求
5  株式会社の親会社社員は、その権利を行使するため必要があるときは、裁判所の許可を得て、第一項の議事録について前項各号に掲げる請求をすることができる。



1.当該判例の事実概容並びに判旨は「別冊ジュリスト 会社法判例百選」より引用した。ただし、括弧書きが煩雑であると思われる部分については、著者判断で一部省いている


参考資料
・e-Gov 「会社法」 2005年7月26日公布 最終改正2009年7月10日
・江頭憲治郎等編 「別冊ジュリスト 会社法判例百選」 2006年4月 有斐閣
・共同通信 「福島の被災2市が脱原発賛成 東電株主総会、批判相次ぐ」 2011年6月28日

2011年6月25日土曜日

第三百七十一段 ネルチンスク条約あれこれ

我々は過去を振り返ることによってしか未来を見ることができない」とは仏の文筆家ポール・ヴァレリーの言葉であったかと思うが、中東動乱や米国の相対的衰退と欧州経済危機、人口大国印中の台頭、老経済大国日本を襲った未曽有の大震災等、変動激しい今日の世界の見取り図を描くのに、過去の人々がどのような条件下でどのようなことを成し遂げてきたのかを復習してみるのも悪くはないかと思われる。

そんなわけで、今回取り上げるのは17世紀末に露清間で結ばれたネルチンスク条約という、大抵の人にとっては高校世界史でちょっと触れてそれっきりなマイナー条約。内容としては要するに「ロマノフ朝ロシアと清王朝の間での国境を画定した」条約なのだが、この条約が締結されるまでとされてから、そして当該条約に関わる勢力を現在世界に当てはめると、意外に面白い構図が浮かんでくるのである。

まず、ネルチンスク条約締結前後の露清の政治状況を示したのが以下の年表。

1652年マンチュリアにて露清両軍が衝突
1661年清朝にて康煕帝即位
1670年ロマノフ朝ロシアにてステンカ・ラージンの乱勃発(~1671年)
1673年清朝にて三藩の乱勃発(~1681年)
1676年ジュンガルにてガルダン・ハーン即位
1680年この頃、ガルダン・ハーンによって東トルキスタンがほぼ制圧される
1683年清王朝、「復明滅清」を掲げる台湾の鄭氏政権を滅ぼす
1689年ロマノフ朝ロシアにてピョートル一世即位。また露清間でネルチンスク条約締結
1690年ウーラン・ブトンの戦いで康煕帝がガルダン・ハーンを破る
1696年外モンゴルの遊牧勢力ハルハ部が清に服属。これを認めないジュンガルと清との間でとジョーン・モドの戦いが勃発し、ガルダン・ハーンが敗北。
1697年ガルダン・ハーン、敗走の最中に病死
1700年露、スウェーデンとの間で大北方戦争を始める(~1721年)
1720年チベット、トルファンが清王朝の支配下に入る

上記年表からも窺えるように、当該条約締結前後の露清の状況は、奇しくも非常に似通っている。
即ち、条約締結前においては、清王朝は三藩の乱や台湾に拠って「復明滅清」を掲げる鄭氏政権の挑戦といった危機に直面し、それを打破することで中華本土の支配を確定的なものとしている。
一方、ロマノフ朝ロシアではコサックや遊牧民、逃亡農民等を糾合したステンカ・ラージンがボルガ川流域一帯で大規模な反乱を起こして一時はモスクワを窺うまでの勢いを示すが、やがてロマノフ朝の反撃が成功してボルガ川流域におけるロマノフ朝の支配が確固たるものとなっている。
そして条約締結後を見れば、清王朝は従来よりチベットや内外モンゴル、東トルキスタンといった内陸アジア地域の支配を巡って遊牧勢力ジュンガルとのライバル関係にあったが、当該条約締結によってロマノフ朝がジュンガルと連携する可能性を摘み取るや、彼らとの直接対決に踏み切り、2度の戦いにおいてジュンガル側に痛撃を与えて大きく支配地を西方に拡大させている。
一方のロマノフ朝は、ピョートル一世の指揮下、バルト海とその沿岸地域において支配的立場にあり故に「バルト帝国」とも称されたスウェーデンとの間で史上名高い「大北方戦争」を戦い、苦闘の末、カレリアやエストニア、リヴォニア等を獲得して新たなバルト海の支配者となっている。

後世の者の目からすると、上記の如きネルチンスク条約締結前後における露清両国の「内乱に苦しむもこれを克服→条約締結→自国雄飛の契機となる大戦に挑む」というパラレルな展開は実に興味深い所である。

また、左記地図で明瞭に示されるように、露清が当該条約締結によって「主要敵と正面切って戦う前に、脇や後背の安全を固め」られたことの歴史的意義も非常に大きかったと考えられる。

というのも、清王朝のジュンガルに対する勝利とそれによる征服地の拡大こそが、現在の我々が目にする中華人民共和国の広大な領土の直接の礎となっているからであり、そして、ピョートル一世以後のロマノフ朝からソ連、ロシア連邦に至るまで、ロシアが「アジアのキリスト教国」ではなく、「欧州の一員」として、かの地のバランス・オブ・パワーに大きな存在感を示し続けているのも、直接的な淵源は大北方戦争とその結果による領土の西方拡大にあったからである。
つまり、1689年のネルチンスク条約締結こそが、「巨大な中国」と「欧州の一員としてのロシア」という、現在の国際政治において当然の如く考えられている前提の出発点とも言えるのである。

更に、ここで視点を17世紀末から現代に戻してみると、ロシア連邦と中華人民共和国は2004年に中露国境協定を締結し、2008年に両国外相が北京で東部国境画定に関する議定書へ署名したことで、中露国境は全て画定された。まさに1689年のネルチンスク条約と似た状況が広がっている。
では、当時の清王朝に現在の中華人民共和国当てはめた場合、ジュンガルに該当するのは現在どの勢力なのか? 清-ジュンガルの係争地帯となった内外モンゴル、チベット、東トルキスタンといった内陸アジア地域に該当するのは現在のどの場所なのか?
個人的にはやはり係争地帯には東・南シナ海、ジュンガルについては日本や南沙・西沙諸島で中国と対立する東南アジア諸国が頭に浮かんできてしまう所だが・・・・・

参考資料
・佐口透 「ロシアとアジア草原」 1966年4月 吉川弘文館
・山田信夫 「世界の歴史―ビジュアル版〈10〉草原とオアシス」 1985年7月 講談社 

2011年6月19日日曜日

第三百七十段 羅先、出口か迂回対象か?

去る2011年6月14日、朝鮮半島を取り巻く海運に事情に関して二つ興味深いニュース報じられていた。

一つは、聯合ニュースが報じた以下のニュース。
【ソウル聯合ニュース】北朝鮮が北東部にある羅津港の第2埠頭をスイスに賃貸したことが分かった。北朝鮮経済に詳しい消息筋が14日に伝えた。
 第2埠頭はこれまで北朝鮮が独自に運営すると明らかにしていたが、一転してスイスに賃貸することになったという。賃貸の期間や具体的な契約条件については明らかになっていない。
 羅津港については、昨年3月に第1埠頭を中国に10年間賃貸する契約を結んだ。同じころロシアとも第3埠頭の50年間賃貸契約を結んだとされる。
 同消息筋は、中国の政府当局者から聞いた話として、第4~第6埠頭については、さまざまな国と賃貸についての協議を進めており、中でも欧州の国や企業との経済関連議論が活発に行われているという。
北朝鮮とスイスは定期的に政治的な交流を続けており、朝鮮中央通信は13日にスイス外務省の代表団が2年ぶりに訪朝したと伝えた。
 この消息筋は、羅津だけでなく8日に着工式があった黄金坪島の経済特区についても欧州連合(EU)の多数企業が進出を予定していると話した。
 韓国・中小企業銀行経済研究所のチョ・ボンヒョン研究委員は「北朝鮮は昨年末から欧州やアラブ圏からの投資誘致を積極的に進めている。中国への過度な依存を弱められるほか、経済制裁は効果がないということを誇示する効果を狙ったもの」と分析している。

件の羅津港は近接する先鋒港と並んで羅先自由貿易地帯を形成しており、「朝鮮貿易年報2009」や「北朝鮮経済の現状と今後の展望」、「平成21年度北朝鮮の経済動向分析調査-北朝鮮経済総覧-」、ARCの2006年、2007年「北朝鮮レポート」によれば、以下のような能力・特徴等を有する港湾だとされてきた。

1.水深12m ※深さだけで見れば3万DWTの船舶が寄港可能。
2.荷役能力300万トン
3.韓国・釜山との間に定期航路あり。
4.取扱貨物としては石炭や肥料、原木等が多い模様。
5.2004年にはクレーンやコンテナヤードの改修が行われている。
6.第3、第4埠頭について中国が50年間の使用権を獲得していると言われてきた。

このうち、埠頭の他国への開放状況については、上記記事に基づけば以下のように修正されることになる。

・第1埠頭:中国に10年間の貸借。第2埠頭:スイスに貸借(期間不明)。第3埠頭:ロシアに50年間の貸借。第4~6埠頭:他国と交渉中

そして、羅先開発にとみに前向きな姿勢を示している北朝鮮政府が、韓国軍の済州島基地新設に神経を尖らせているらしいことは、当ブログで以前触れた通りである。

そんな羅先開発を進めていく上で一つ重要な要素が、北朝鮮の後背に控える中国・東北地方の存在である。だが、「中国東北地方にとっての海への出口」という羅先地区のアドバンテージを突き崩しかねない動きも現れてきた。

それが二つ目に取り上げるニュース、コスコ・コンテナライズジャパンのサイトに設けられている「新華社中国物流最新ニュース」に掲載された以下の記事である。
貨物船「永合号」が10日、吉林省琿春市から韓国の釜山港に向けて出港した。中国、ロシア、韓国を結ぶ陸海連絡輸送航路の琿春-釜山間での初就航となり、東北アジア地域の経済を発展させる「黄金水路」が正式に開通した。
 「永合」号は8日、ロシア・ザルビノ港を出港。これまでは、貨物を同市から陸路でロシアまで輸送していた。
 同市航務局の初鉄成・副局長は、釜山港は世界で重要な国際中継港であり、欧州諸国や日本の多くの小型港との間で航路を就航させ、欧州や日本への貨物輸送が便利であるため、今回の航路の就航は、豆満江地域内の国と世界各地との経済貿易の門が開いたに等しいとの見解を示した。
【新華社長春】

繰り返しめいてしまうが、中国東北地方とのリンケージを利点の一つとして掲げて外国の投資を呼び込もうとしている北朝鮮・羅先にとって、その中国東北地方の琿春と釜山とを直結する輸送経路が登場したことは、自らの強みが一つ霞んでしまったことを意味している。この動きが果たして、北と南を競わせることで東北地方の開発に有利な条件を引き出そうとする中国政府の意図によるものなのか否か、それとも北朝鮮との国境地帯にAH-64やATACMSの配備を進める韓国の対北外交攻勢の一環なのか否か、或いはそんな中韓両国の意図が上手く噛み合った結果の産物なのか、実に気になることである。

そして気になることがもう一つ。スイスと言えば、世界最大規模の商品取引企業にして自らも資源権益確保を行っているグレンコアやその傘下の資源大手エクストラータが頭に浮かぶが、今回の北朝鮮とスイスの羅津埠頭貸借がまとまったことをキッカケとして、今後、彼らが各種金属資源について有望な鉱脈を複数有するとされる北朝鮮での資源開発に乗り出してくるのか否か、こちらも大変に興味深い所である(無論、ハードルは政治的にもインフラの整備状況といった面でもかなり高そうだが・・・・)

参考資料
・WTS 「朝鮮貿易年報2009」 2009年10月
・コスコ・コンテナライズジャパン 新華社 「中露韓陸海連絡輸送航路で琿春-釜山間が開通」 2011年6月14日
・聯合ニュース 「北朝鮮、羅津港の2号埠頭をスイスに賃貸」 2011年6月14日
・東アジア貿易会 「ARCレポート 北朝鮮 2006」 2006年11月 世界経済情報サービス
・東アジア貿易会 「ARCレポート 北朝鮮 2007」 2007年11月 世界経済情報サービス
・東アジア貿易研究会 「北朝鮮経済の現状と今後の展望」 2010年3月
・東アジア貿易研究会 「平成21年度北朝鮮の経済動向分析調査-北朝鮮経済総覧-」 2010年3月

<当ブログ内関連段>
・「第三百六十六段 羅先と済州島と・・・」
・「第三百五十三段 北朝鮮トランスポート」
・「第三百四十九段 憧れの津軽海峡航路」

2011年6月15日水曜日

第三百六十八段 東電原発補償問題でふと思ったこと

2011年3月11日に発生した東日本大震災によって引き起こされた原発災害だが、その補償責任を事故を起こした原発を建設・運営していた東京電力にどのように負わせるかについて議論が続いている。

その法律的枠組みや株主責任、債権者保護といった様々の問題点・注目点については諸賢がこれまた様々な観点から論じている所でもあり、ずぶの素人に過ぎない自分が生半可な知識をひけらかして自ら恥をかくことだけは避けたいのだが、それでも少し気になったことがあったので、多少の失笑は覚悟の上で記してみたいと思う。

その気になったこととは何かというと、「現在東電に起きているような事態が、将来、青森県大間原発(現在、電源開発によって建設が進められている)で生じたら?」ということである。

左記地図から明らかなように、大間原発(建設予定地)を中心とした半径30kmの円を描くとその範囲は津軽海峡を超えて対岸の函館市にまで及ぶことになる。

ここで注目したいのが、その津軽海峡の存在である。
そもそも津軽海峡は日本の領海となっている範囲が、冷戦時代の外交的配慮の影響で通常の12海里ではなく3海里にとどめられており、その中心部分は諸外国の艦船(軍艦含む)が自由に往来可能な公海となっている。
かつては「公海」ということで米ソ海軍の水上艦や潜水艦が激しく行き交ったこの海峡は、今、中国や韓国、台湾と北米を結ぶ重要な航路として台頭しているのだ。

さて、そこで大間原発が稼働し、そこから更に多くの不幸・ミスが積み重なった末に福島県で発生したような原発事故が発生したらどうなるか?

津軽海峡一帯に住む日本国民への被害は勿論、津軽海峡を行き交う中韓台等の船舶にも放射能汚染や乗員への健康被害といった問題が発生してくる可能性は高いし、もし津軽海峡が一時的とはいえ航行不可となった場合には日頃同海峡を利用していた各国海運企業にそれなりの逸失利益や航路変更に伴うコスト増が降りかかることになると予想される。こうした事態に対して当然各国は日本政府に対して相応の補償を要求してくるだろう。

東電の問題は加害者、被害者共に日本国内でほぼ完結している。だがそれでも、その補償範囲の画定や金額の策定等について当局や関係者の間で激しい議論や困難な交渉が行われている。
大間原発にもし事あれば、それが外国(しかも幾つかの国については歴史的な因縁や外交・安全保障上での対立も抱えている)をも巻き込んだ形で再現されるのである。
しかも補償交渉を進めていく上での台湾の扱いが、1972年の日中国交正常化以後の日中関係を規定してきた「一つの中国」政策との兼ね合いも絡んで、日中台間の交渉を一層複雑化させることも想像に難くない。
更に補償交渉が長引けば、中韓台の世論で「事故を起こして真面目に補償金を払おうとしない日本はけしからん!」といった具合に日本への反発が高まる可能性もあろうし、それがマスコミによって日本に報じられることで、今度は日本側に「あいつらは言いがかりにも等しい補償をふっかけてきてけしからん!」という世論の怒りを掻き立てることも考えられる。

そうなった時、アジア太平洋地域の安全保障環境に全く影響を与えないまま事態が推移するとは少し考えにくいものがあろう。

以上が東電原発補償問題に係る報道や論説を見ていて心に浮かんだ「気になる点」である。

<注記>
無論、青森大間と福島とで地震や津波の発生確率やそれが原発に及ぼす危険性が全く同じというわけではないこと、そして今回事故を起こした福島第一原発(1976年稼働)と現在建設中の大間原発の間にある安全面での技術革新の差といったものは承知しており、大間原発の建設を進めている電源開発も東日本大震災で露わになった問題点に全く無関心だとは個人的には思っていないが、そういった要素をあえて無視した一種の思考実験として、当段に記したような事態を考えてみたものである。

<当ブログ内関連段>
・「第三百四十九段 憧れの津軽海峡航路」

2011年6月11日土曜日

第三百六十六段 羅先と済州島と・・・

最近、近所のコンビニで「三多水」(2リットル・ペットボトル)という水が売られるようになってきた。ラベルの情報を見ると、韓国の済州道特別自治道開発公社が製造してそれが輸入されているようである。

そんな済州島産「三多水」の「三多」とは何かというと、古来より済州島には石と風と女の三つが多いと称されてきたことから出た言葉である。
同島は元々が火山島であったため、それに起因して火山岩が多く、かつ台風や季節風の通り道に当たるため、強風の日が多く、男は働き場所を海に求めるも海難に遭うことが稀ではなかったため、陸上では男より女をよく見かけるという時代が久しく続いたため、このように称せられたのだという。

火山岩だらけであまり農業には適さない土地を抱え、自然と海に目を向けざるを得なかった往時の島の生活を彷彿とさせる言葉だが、見方を変えればこの島は、日本と朝鮮半島、そして中国大陸を繋ぐ海路に睨みを利かせるには絶好の地点に位置するということから、多くの海上勢力の根城ともなってきた場所でもある。

例えば、13世紀になってモンゴル帝国による高麗王朝への侵攻・支配が始まると、モンゴルを新たな支配者と認め、これとの関係を強化することで自勢力の立場を強化しようとした王氏(ややこしいが、高麗王朝の王家)とそれに反発する武臣勢力との対立が深まる中、武臣勢力は各人の私兵を中核に漁労等に従事する賤民を糾合して「三別抄」という軍事組織を結成し、済州島を根拠地としてモンゴルに抵抗を続けた。
三別抄の水軍に手を焼いたモンゴル・高麗連合は、三別抄と幾多の戦いを繰り広げる一方で自らも水軍力の強化に努め、遂に1273年、三別抄の根拠地たる済州島を攻め落とすことに成功する(モンゴルによる日本侵攻、所謂「文永の役」はこの1年後)。そして三別抄後略後、島が高麗と南宋を繋ぐ海上航路を扼すに恰好な位置にあること、地形・環境が馬群の放牧に好適であることを重く見たモンゴルは、これを直轄地としたのだった。
やがて14世紀に入り、ユーラシアを広く覆うに至ったモンゴル帝国に大規模な寒冷化が襲いかかるや、ユーラシア極東部も日本列島においては鎌倉幕府滅亡と南北朝動乱の始まり、朝鮮半島にあっては高麗内部の親モンゴル派と反モンゴル派の対立激化から反モンゴル派有力者李成桂による李朝建国、中国大陸にあってはモンゴルに対する反乱の頻発から朱元璋による明王朝建立という大規模な政治的動乱が相次ぎ、結果、東シナ海を中心とする海域の無秩序化が進行していく。そんな中で各地域の商人や兵士、漁労民等が「倭寇」と呼ばれる武装海上勢力を形成して貿易や沿岸地域への略奪等に乗り出していくことになるが、その倭寇の根拠地の一つもまた済州島だったのである。

以上のような歴史を有する済州島に、韓国が昨年から新たな海軍基地建設を進めている。中央日報紙が昨年報じている所によれば、以下の通り。
敷地の選定と妥当性をめぐる5年間の議論の末、07年5月、西帰浦市大川洞(ソギポシ・デチョン)江汀(カンジョン)村を候補地に決めた。その後、江汀浦の東側52万平方キロに2014年まで約1兆ウォン(約750億円)を投資し、戦略機動艦隊基地を建設する計画が発表された。艦艇20余隻と15万トン級クルーズ船舶2隻が同時に係留できる「民・軍複合型観光美港」として建設するということだ。

この新基地建設について、今年5月31日になってから北朝鮮が噛みついている。以下に引用する5月31日付労働新聞記事がそれである。(以下に引用した日本語訳は、朝鮮通信社が日刊で出している「朝鮮通信 No.16157」による。なお赤太字は著者による)
南朝鮮かいらい軍部当局が済州道西帰浦市の江汀洞に新たな海軍基地の工事を行っている。
昨年1月から始まったこの海軍基地建設が完工した場合、そこにはかいらい陸上支援戦隊と空軍探索部隊をはじめ軍種共同作戦に必要な武力が配置され、かいらい海軍の第7機動戦団がこの基地を母港に利用し、いわゆる「支援」と海上交通路(シーレーン)の統制などを基本任務として遂行するという。
昨年、謀略的なチョンアン(天安)事件を口実にかいらい当局がわれわれの船舶の済州海峡通過を阻む措置を取ったのに続き、かいらい海軍の第7機動戦団は朝鮮東・西海と太平洋上で米帝侵略軍との合同の下、わが共和国に対する海上封鎖演習と海上射撃訓練等などに狂奔した。昨年10月に釜山沖合で行われた「大量破壊兵器拡散防止構想」(PSI)関連の海上封鎖・捜索訓練と楸子島および欲知島付近でのかいらい海軍の海上機動訓練など、済州島周辺では反共和国火遊び騒動が相次いで行われた。これを通じても、南朝鮮好戦狂が済州海軍基地の建設を強行する理由が反共和国海上封鎖をさらに強化し、北侵戦争準備を進めるところにあることがよく分かる。
南朝鮮当局が済州島に海軍基地の建設を強行する理由はそれだけにあるのではない。保守当局は、済州海軍基地を米帝のアジア制覇戦略実現の前哨基地に委ねようとしている。
済州島が平澤と仁川、群山、光州を結ぶミサイル防衛(MD)システム構築の主な対象地の一つとされており、済州島に新設される海軍基地に原子力空母をはじめ米軍艦船の停泊まで見越している事実がそれを実証している。
米国は、海外侵略をさらに強化するための南朝鮮占領米軍の「戦略的柔軟さ」の実現において済州島を地理的にアジア太平洋地域のどこの国にも進出できる重要な拠点と見なしている。従って、米国は「同盟」の看板の下にかいらいを基地建設に駆り出しており、かいらいもまた、この機会に主人を後ろ盾にして公海上へと作戦半径を広げる条件を整えようとしているのである。
現在、米国内でまで済州海軍基地が米国の海洋制覇のための軍事的足場であって、東アジア諸国の海上輸入通路を統制してそれらの国を圧迫する手段に活用するであろうという世論が流れており、外電も基地の建設によって一層高まる軍事的緊張状態に対して大きな不安と懸念を隠せないでいるのは、決して偶然ではない。
これらの事実は、全同胞と世界の平和愛好人民の志向にはお構いなしに朝鮮半島の平和と安定を脅かし、戦争策動に明け暮れる米帝と南朝鮮かいらいの侵略的正体をことごとくあらわにしている。
現在、南朝鮮各界では済州島の人民の生のよりどころを侵略戦争の前哨基地に委ねようとする保守当局の策動を峻烈(しゅんれつ)に断罪、糾弾し、工事を直ちに中断するよう求める声が高く響き渡っている。
我が民族は、同族対決に狂奔して人民の生のよりどころを外部勢力の侵略戦争戦略実現のいけにえにささげようとする南朝鮮保守一味の事大・売国的行為を絶対に許さないであろう

いつも通りツッコミどころ満載のアジ文体だが、赤太字部分だけを見てもらえれば分かるように、要するに北朝鮮は、現在、韓国の済州島新基地によって自身の海上交通が阻害される可能性に敏感になっているようだ。
「何をいまさら」という気がしないでもないが、朝鮮総連サイト等で最近の北朝鮮政府が日本海側の港湾都市羅先の開発に前向きな姿勢を示していると報じられていること、そして羅先の地理的な配置を頭に入れた上で、韓国の済州島海軍基地新設に対する北朝鮮の反発を報じた上記記事を改めて読めば、北朝鮮の「羅先開発の芽が済州島基地で扼殺されてはかなわん」という焦り、裏返せば北朝鮮政府の羅先開発に対する本気度を垣間見ることができるのではないか。
そして以下の地図に明らかなように、羅先が港湾都市として発展できるか否かは、北朝鮮が津軽海峡と対馬海峡を押さえる日本、朝鮮海峡を押さえる韓国、そしてその両国共通の同盟国にして最強の海軍力をアジア太平洋地域に展開する米国との間で如何な関係を構築するかに懸ってくることも考慮するならば、羅先開発に対する北朝鮮の熱意は、ひょっとすると日本の対北外交にとって有利なカードを提供するものなのかもしれない。


<参考資料>
・在日本朝鮮人総聯合会 「豆満江流域 東北アジアの物流拠点に」 2011年6月3日
・中央日報 「【社説】済州海軍基地、これ以上遅らせることはできない」 2010年12月16日
・朝鮮通信社 「朝鮮通信」No.16157 2011年6月2日

<当ブログ内関連段>
・「第三百五十三段 北朝鮮トランスポート」
・「第三百四十九段 憧れの津軽海峡航路」

2011年6月4日土曜日

第三百六十五段 間接アプローチ@春秋戦国

「間接アプローチ」という言葉がある。これは英国の軍事史研究家リデル・ハートが提唱した戦略概念で、彼が残した以下の各コメントに端的に表れているように「敵軍との正面衝突を避け、間接的に相手を無力化・減衰させる」ことを主眼とした戦略である。

敵の主役を撃破すれば自動的に敵の脇役を崩壊させることになると信じて敵の主役の覆滅を図るよりも、寧ろまず敵の脇役に対して努力を集中させる方が稔りがより大きい。

戦略家は、敵の殺戮という条件で考えるべきではなく、敵の麻痺という条件で考えを巡らせるべきである。

畢竟戦争とは、「相手にこちら側の意思を強制する」ことを目的とする政治行為の一形態だが、その目的を達成するには敵戦力の殲滅こそが唯一の道だと説くクラウゼヴィッツの思考と鮮やかな対照をなす考え方である。

この「間接アプローチ」という概念を、リデル・ハートはエパミノンダスやアレキサンダー大王が活躍した古代ギリシャ、ヘレニズム時代からヒットラーやチャーチル、アイゼンハワーらが辣腕を奮った第二次大戦に至るまで、欧州を舞台とする膨大な戦史を渉猟することで構築していった。

だがここで視線を東方に転じれば、幾多の王朝が興亡を繰り広げた中国大陸においても、「詩聖」とも称される盛唐の詩人杜甫が「前出塞九首其六」(注1)の中で「人を射らば先づ馬を射るべし」と詠ったように、間接アプローチの概念と一致する所の多い優れた軍略を目にすることができる(注2)。

その代表例とも言えるのが、以下に掲載する、春秋戦国時代に斉の国に軍師として仕えた孫臏の軍略である。

魏伐趙、趙急、請救於齊。齊威王欲將孫臏、臏辭謝曰:「刑餘之人不可。」 於是乃以田忌為將、而孫子為師、居輜車中、坐為計謀。
田忌欲引兵之趙、孫子曰:「夫解雜亂紛糾者不控捲,救鬬者不搏撠、批亢擣虛、形格勢禁、則自為解耳。今梁趙相攻、輕兵銳卒必竭於外、老弱罷於內。君不若引兵疾走大梁、據其街路、衝其方虛、彼必釋趙而自救。是我一舉解趙之圍而收獘於魏也。」 田忌從之、魏果去邯鄲、與齊戰於桂陵、大破梁軍。

<和訳(著者による)>
魏が趙に侵攻し、趙が危急の時であるとして斉に救援を求めてきた。斉の威王は孫臏を援軍の将としようとしたが、孫臏は辞退して言った、「刑罰を与えられた人間には過ぎた地位です」と。(注3)そこで田忌を援軍の将とし、孫臏は軍師として輜重用の馬車の中にあって、作戦を練った。
田忌は兵を率いて直接趙の救援に赴くことを希望したが、孫臏は進言した、「複雑に乱れ絡まり合った糸を解こうとする者は無理に引っ張らず、戦争から救おうとする者は戦いに直接加わるべきではなく、要所を突き、虚を突いて、形勢を崩してやれば、糸は自ずと解けていくものです。今梁(魏の別名)は趙と相戦っており、その精鋭は必ずや悉く国外にあって、老弱な兵が国内に残るばかりでしょう。将軍がもし兵を率いて速やかに大梁(魏の都)に向かい、その街道を押さえ、その脆弱な部分を衝けば、間違いなく敵は趙への攻撃をやめて自国を救おうとします。これで趙を包囲から救うことと魏に害を与えることが一挙に成ります」と。田忌がその進言の通りにした所、果たして魏軍は(攻撃中だった)邯鄲(趙の都)から撤退し、(待ち構えていた)斉軍と桂陵で戦い、大敗してしまった。
これはまさに、敵の主役(魏の趙侵攻軍)と直接矛を交えるのではなく、敵の脆弱な部分(魏の都大梁)に自軍戦力を集中することで敵の戦略バランスを突き崩し、大きな稔りを獲得した事例だと言えよう。(注4)

そして、リデル・ハートの着想や孫臏の軍略から見て取れる、「何も万全の状態にある敵に直接ぶつかる必要はない。ぶつかるのは相手の万全性を突き崩してからで十分」という知恵は、戦争に限らず、日常の多くの場面でも該当するものと言えるのではないだろうか。

注釈
注1.杜甫が作成した五言律詩の一つ。以下に書き下し文を掲げるが、この作品もまたリデル・ハートの論じる戦略論と共通する発想が認められるのが興味深い。
弓を挽かば當に強きを挽くべし
箭を用ひなば當に長きを用ふべし
人を射らば先づ馬を射るべし
賊を擒にせんとすれば先づ王を擒にすべし
殺人には亦限り有り
列国には自づから疆有り
苟くも能く侵陵を製せば
豈に多く殺傷するに在らんや
注2.リデル・ハートが主に取り扱ったのは欧米の戦史だが、著書「戦略論」では「孫子」からの引用が度々なされており、彼が中国の戦史にも全く無関心ではなかったことが窺われる。
注3.
孫臏は斉に仕える前、同じ師匠の下で兵法を学んだ兄弟子龐涓によって無実の罪に陥れられ、足きりの刑に処されていた。余談だが、当ブログで取り上げた桂陵の戦いから13年後、魏の国で将軍となった龐涓が魏国太子と共に大軍を率いて斉に侵攻してくる。これを孫臏は伏兵と弩の巧みな運用で迎え撃ち、馬陵の地で多くの魏兵のみならず龐涓と太子をも討ち取ってかつての雪辱を見事に果たすのである。
注4.この桂陵の戦いに至るまでの孫臏の戦略があまりにも鮮やかであったことから、この「史記」のエピソードからは「囲魏救趙」という故事成語が生まれている。

参考資料
・リデル・ハート 「戦略論」上下巻 1971年5月 原書房 森沢亀鶴訳
・司馬遷 「史記」列伝巻六十五 孫子呉起列伝第五 (台湾中央研究院 漢籍電子文献より)

2011年6月2日木曜日

第三百六十四段 狼煙の代償

古代中国の思想家にして、今なお掬すべき言葉を多く遺した孔子だが、彼と弟子の問答の中に以下のようなものがある
(和訳は著者による)
子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵。曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食、自古皆有死、民無信不立。

<和訳>
子貢(孔子の弟子)が孔子に政治の要諦について質問した。孔子は答えた、「食料を十分に蓄えて軍備を整え、民衆に政府を信用させることだ」と。子貢がまた質問した、「もし必ずどれかを捨て去らなければならないとしたら、その三者(食料、軍備、信用)の中でどれを先に捨てますか」と。孔子は答えた、「軍備だな」と。子貢がまた質問した、「もし必ずどれかを捨て去らなければならないとしたら、残った二者(食料、信用)の中でどれを先に捨てますか」と。孔子は答えた、「食料だな。昔から死というのは誰にでもあることだが、民は政治を信用すること無しには安定した生活を営めないから」と

この「軍備より食料より、人々から政治に対する信用を獲得することが治国の肝なのだ」という孔子と弟子の問答こそが、所謂「信無くば立たず」の典拠である。

では権力者が支配下の人々から信用を失うとどうなるのか? 「史記」の周本紀に完璧過ぎるほどの実例が載っている。

襃姒不好笑、幽王欲其笑萬方、故不笑。幽王為熢熢大鼓、有寇至則舉熢火。諸侯悉至、至而無寇、襃姒乃大笑。幽王說之、為數舉熢火。其後不信、諸侯益亦不至。
幽王以虢石父為卿、用事、國人皆怨。石父為人佞巧、善諛好利、王用之。又廢申后,去太子也。申侯怒、與繒西夷犬戎攻幽王。幽王舉熢火、兵莫至。遂殺幽王驪山下、虜襃姒、盡取周賂而去。

<和訳>
襃姒(幽王の寵妃)は笑みを浮かべることが無かった。(周の)幽王は彼女の笑顔を一目見ようとあらゆる手を尽くしたが、襃姒が笑うことはなかった。ある時、幽王は狼煙を上げ陣太鼓を鳴らした。もし外敵の侵入があれば狼煙を上げることになっていたのである。(狼煙が上がったことを知った)諸侯が兵を引き連れて都に集結したが、実は外敵の侵入はなかったことが判明した。襃姒は(「外敵侵入」が誤報と知って気の抜けた様子の諸侯を見て)大笑いをした。これを見た幽王は大変に喜び、以後度々(外敵の侵入もないのに)狼煙を上げさせた。これによって狼煙の信用は全く無くなり、諸侯も(狼煙が上がっても)都に駆けつけることはなくなった。
幽王は虢石父という人物を大臣に取り立て、国政を任せたが、これに国中の人々が反感を抱いた。虢石父の人となりは口先だけが達者で、へつらいに長けて金に汚いというものであったが、王はこれを重用したのである。また(幽王は)申后を第一夫人の座から追い出し、その子供も太子の位から外した。(申后の父である)申侯は激怒し、繒の国や西方異民族と組んで幽王に対して兵を挙げた。幽王は(援軍を求めるため)狼煙を上げたが、一兵たりとも彼の許に駆けつけることはなかった。結局幽王は驪山にて殺され、襃姒は捕虜となり、侵攻軍は周の財産を悉く奪って去って行った。

溺愛する寵妃を喜ばせるだけのために「偽りの狼煙」という茶番劇を延々と繰り返し、実務能力の伴わない巧言令色のへつらい者を重んじたことで、周王朝を実際に支えていた諸侯らの不信を買い、結果、無惨な死を遂げた挙句に千年の汚名をも遺すことになった幽王。だが彼の一連の失態は、果たして遠い異国の遠い昔の亡国譚として無邪気に笑って済ませられるものなのか否か・・・・( ̄w ̄;)

参考資料
・孔子 「論語」巻六 顔淵第十二 (岩波文庫版 1999年11月 金谷治訳注 より)
・司馬遷 「史記」本紀巻四 周本紀第四 (台湾中央研究院 漢籍電子文献より)