2011年6月4日土曜日

第三百六十五段 間接アプローチ@春秋戦国

「間接アプローチ」という言葉がある。これは英国の軍事史研究家リデル・ハートが提唱した戦略概念で、彼が残した以下の各コメントに端的に表れているように「敵軍との正面衝突を避け、間接的に相手を無力化・減衰させる」ことを主眼とした戦略である。

敵の主役を撃破すれば自動的に敵の脇役を崩壊させることになると信じて敵の主役の覆滅を図るよりも、寧ろまず敵の脇役に対して努力を集中させる方が稔りがより大きい。

戦略家は、敵の殺戮という条件で考えるべきではなく、敵の麻痺という条件で考えを巡らせるべきである。

畢竟戦争とは、「相手にこちら側の意思を強制する」ことを目的とする政治行為の一形態だが、その目的を達成するには敵戦力の殲滅こそが唯一の道だと説くクラウゼヴィッツの思考と鮮やかな対照をなす考え方である。

この「間接アプローチ」という概念を、リデル・ハートはエパミノンダスやアレキサンダー大王が活躍した古代ギリシャ、ヘレニズム時代からヒットラーやチャーチル、アイゼンハワーらが辣腕を奮った第二次大戦に至るまで、欧州を舞台とする膨大な戦史を渉猟することで構築していった。

だがここで視線を東方に転じれば、幾多の王朝が興亡を繰り広げた中国大陸においても、「詩聖」とも称される盛唐の詩人杜甫が「前出塞九首其六」(注1)の中で「人を射らば先づ馬を射るべし」と詠ったように、間接アプローチの概念と一致する所の多い優れた軍略を目にすることができる(注2)。

その代表例とも言えるのが、以下に掲載する、春秋戦国時代に斉の国に軍師として仕えた孫臏の軍略である。

魏伐趙、趙急、請救於齊。齊威王欲將孫臏、臏辭謝曰:「刑餘之人不可。」 於是乃以田忌為將、而孫子為師、居輜車中、坐為計謀。
田忌欲引兵之趙、孫子曰:「夫解雜亂紛糾者不控捲,救鬬者不搏撠、批亢擣虛、形格勢禁、則自為解耳。今梁趙相攻、輕兵銳卒必竭於外、老弱罷於內。君不若引兵疾走大梁、據其街路、衝其方虛、彼必釋趙而自救。是我一舉解趙之圍而收獘於魏也。」 田忌從之、魏果去邯鄲、與齊戰於桂陵、大破梁軍。

<和訳(著者による)>
魏が趙に侵攻し、趙が危急の時であるとして斉に救援を求めてきた。斉の威王は孫臏を援軍の将としようとしたが、孫臏は辞退して言った、「刑罰を与えられた人間には過ぎた地位です」と。(注3)そこで田忌を援軍の将とし、孫臏は軍師として輜重用の馬車の中にあって、作戦を練った。
田忌は兵を率いて直接趙の救援に赴くことを希望したが、孫臏は進言した、「複雑に乱れ絡まり合った糸を解こうとする者は無理に引っ張らず、戦争から救おうとする者は戦いに直接加わるべきではなく、要所を突き、虚を突いて、形勢を崩してやれば、糸は自ずと解けていくものです。今梁(魏の別名)は趙と相戦っており、その精鋭は必ずや悉く国外にあって、老弱な兵が国内に残るばかりでしょう。将軍がもし兵を率いて速やかに大梁(魏の都)に向かい、その街道を押さえ、その脆弱な部分を衝けば、間違いなく敵は趙への攻撃をやめて自国を救おうとします。これで趙を包囲から救うことと魏に害を与えることが一挙に成ります」と。田忌がその進言の通りにした所、果たして魏軍は(攻撃中だった)邯鄲(趙の都)から撤退し、(待ち構えていた)斉軍と桂陵で戦い、大敗してしまった。
これはまさに、敵の主役(魏の趙侵攻軍)と直接矛を交えるのではなく、敵の脆弱な部分(魏の都大梁)に自軍戦力を集中することで敵の戦略バランスを突き崩し、大きな稔りを獲得した事例だと言えよう。(注4)

そして、リデル・ハートの着想や孫臏の軍略から見て取れる、「何も万全の状態にある敵に直接ぶつかる必要はない。ぶつかるのは相手の万全性を突き崩してからで十分」という知恵は、戦争に限らず、日常の多くの場面でも該当するものと言えるのではないだろうか。

注釈
注1.杜甫が作成した五言律詩の一つ。以下に書き下し文を掲げるが、この作品もまたリデル・ハートの論じる戦略論と共通する発想が認められるのが興味深い。
弓を挽かば當に強きを挽くべし
箭を用ひなば當に長きを用ふべし
人を射らば先づ馬を射るべし
賊を擒にせんとすれば先づ王を擒にすべし
殺人には亦限り有り
列国には自づから疆有り
苟くも能く侵陵を製せば
豈に多く殺傷するに在らんや
注2.リデル・ハートが主に取り扱ったのは欧米の戦史だが、著書「戦略論」では「孫子」からの引用が度々なされており、彼が中国の戦史にも全く無関心ではなかったことが窺われる。
注3.
孫臏は斉に仕える前、同じ師匠の下で兵法を学んだ兄弟子龐涓によって無実の罪に陥れられ、足きりの刑に処されていた。余談だが、当ブログで取り上げた桂陵の戦いから13年後、魏の国で将軍となった龐涓が魏国太子と共に大軍を率いて斉に侵攻してくる。これを孫臏は伏兵と弩の巧みな運用で迎え撃ち、馬陵の地で多くの魏兵のみならず龐涓と太子をも討ち取ってかつての雪辱を見事に果たすのである。
注4.この桂陵の戦いに至るまでの孫臏の戦略があまりにも鮮やかであったことから、この「史記」のエピソードからは「囲魏救趙」という故事成語が生まれている。

参考資料
・リデル・ハート 「戦略論」上下巻 1971年5月 原書房 森沢亀鶴訳
・司馬遷 「史記」列伝巻六十五 孫子呉起列伝第五 (台湾中央研究院 漢籍電子文献より)