2011年6月25日土曜日

第三百七十一段 ネルチンスク条約あれこれ

我々は過去を振り返ることによってしか未来を見ることができない」とは仏の文筆家ポール・ヴァレリーの言葉であったかと思うが、中東動乱や米国の相対的衰退と欧州経済危機、人口大国印中の台頭、老経済大国日本を襲った未曽有の大震災等、変動激しい今日の世界の見取り図を描くのに、過去の人々がどのような条件下でどのようなことを成し遂げてきたのかを復習してみるのも悪くはないかと思われる。

そんなわけで、今回取り上げるのは17世紀末に露清間で結ばれたネルチンスク条約という、大抵の人にとっては高校世界史でちょっと触れてそれっきりなマイナー条約。内容としては要するに「ロマノフ朝ロシアと清王朝の間での国境を画定した」条約なのだが、この条約が締結されるまでとされてから、そして当該条約に関わる勢力を現在世界に当てはめると、意外に面白い構図が浮かんでくるのである。

まず、ネルチンスク条約締結前後の露清の政治状況を示したのが以下の年表。

1652年マンチュリアにて露清両軍が衝突
1661年清朝にて康煕帝即位
1670年ロマノフ朝ロシアにてステンカ・ラージンの乱勃発(~1671年)
1673年清朝にて三藩の乱勃発(~1681年)
1676年ジュンガルにてガルダン・ハーン即位
1680年この頃、ガルダン・ハーンによって東トルキスタンがほぼ制圧される
1683年清王朝、「復明滅清」を掲げる台湾の鄭氏政権を滅ぼす
1689年ロマノフ朝ロシアにてピョートル一世即位。また露清間でネルチンスク条約締結
1690年ウーラン・ブトンの戦いで康煕帝がガルダン・ハーンを破る
1696年外モンゴルの遊牧勢力ハルハ部が清に服属。これを認めないジュンガルと清との間でとジョーン・モドの戦いが勃発し、ガルダン・ハーンが敗北。
1697年ガルダン・ハーン、敗走の最中に病死
1700年露、スウェーデンとの間で大北方戦争を始める(~1721年)
1720年チベット、トルファンが清王朝の支配下に入る

上記年表からも窺えるように、当該条約締結前後の露清の状況は、奇しくも非常に似通っている。
即ち、条約締結前においては、清王朝は三藩の乱や台湾に拠って「復明滅清」を掲げる鄭氏政権の挑戦といった危機に直面し、それを打破することで中華本土の支配を確定的なものとしている。
一方、ロマノフ朝ロシアではコサックや遊牧民、逃亡農民等を糾合したステンカ・ラージンがボルガ川流域一帯で大規模な反乱を起こして一時はモスクワを窺うまでの勢いを示すが、やがてロマノフ朝の反撃が成功してボルガ川流域におけるロマノフ朝の支配が確固たるものとなっている。
そして条約締結後を見れば、清王朝は従来よりチベットや内外モンゴル、東トルキスタンといった内陸アジア地域の支配を巡って遊牧勢力ジュンガルとのライバル関係にあったが、当該条約締結によってロマノフ朝がジュンガルと連携する可能性を摘み取るや、彼らとの直接対決に踏み切り、2度の戦いにおいてジュンガル側に痛撃を与えて大きく支配地を西方に拡大させている。
一方のロマノフ朝は、ピョートル一世の指揮下、バルト海とその沿岸地域において支配的立場にあり故に「バルト帝国」とも称されたスウェーデンとの間で史上名高い「大北方戦争」を戦い、苦闘の末、カレリアやエストニア、リヴォニア等を獲得して新たなバルト海の支配者となっている。

後世の者の目からすると、上記の如きネルチンスク条約締結前後における露清両国の「内乱に苦しむもこれを克服→条約締結→自国雄飛の契機となる大戦に挑む」というパラレルな展開は実に興味深い所である。

また、左記地図で明瞭に示されるように、露清が当該条約締結によって「主要敵と正面切って戦う前に、脇や後背の安全を固め」られたことの歴史的意義も非常に大きかったと考えられる。

というのも、清王朝のジュンガルに対する勝利とそれによる征服地の拡大こそが、現在の我々が目にする中華人民共和国の広大な領土の直接の礎となっているからであり、そして、ピョートル一世以後のロマノフ朝からソ連、ロシア連邦に至るまで、ロシアが「アジアのキリスト教国」ではなく、「欧州の一員」として、かの地のバランス・オブ・パワーに大きな存在感を示し続けているのも、直接的な淵源は大北方戦争とその結果による領土の西方拡大にあったからである。
つまり、1689年のネルチンスク条約締結こそが、「巨大な中国」と「欧州の一員としてのロシア」という、現在の国際政治において当然の如く考えられている前提の出発点とも言えるのである。

更に、ここで視点を17世紀末から現代に戻してみると、ロシア連邦と中華人民共和国は2004年に中露国境協定を締結し、2008年に両国外相が北京で東部国境画定に関する議定書へ署名したことで、中露国境は全て画定された。まさに1689年のネルチンスク条約と似た状況が広がっている。
では、当時の清王朝に現在の中華人民共和国当てはめた場合、ジュンガルに該当するのは現在どの勢力なのか? 清-ジュンガルの係争地帯となった内外モンゴル、チベット、東トルキスタンといった内陸アジア地域に該当するのは現在のどの場所なのか?
個人的にはやはり係争地帯には東・南シナ海、ジュンガルについては日本や南沙・西沙諸島で中国と対立する東南アジア諸国が頭に浮かんできてしまう所だが・・・・・

参考資料
・佐口透 「ロシアとアジア草原」 1966年4月 吉川弘文館
・山田信夫 「世界の歴史―ビジュアル版〈10〉草原とオアシス」 1985年7月 講談社