2011年7月20日水曜日

第三百七十八段 漠北ワイヤートラップ

3月11日に発生した東日本大震災とそれに伴う福島第1原発事故により、日本国内では「原発推進か? 脱原発か?」という議論が喧しい状況となっている。ただ、原発推進は勿論、脱原発に舵を切って現在ある原発を廃炉にする上でも避けて通れないのが、「使用済み核燃料を何処に置くか?」という問題である。
日本では当初青森県むつ市にリサイクル燃料貯蔵センターを建設し、そこを中間貯蔵施設として順次同県六ヶ所村の核燃料再処理施設に送り込むという青写真を描いていたものの、肝心の核燃料再処理計画が上手く進まず、処理を待つ使用済み核燃料が六ヶ所村の再処理工場内にある貯蔵プールや各発電所内の貯蔵施設に溜め込まれる一方となっている。
当然、それらの貯蔵地にも容量の限界はあり、かといって新たに核燃料最終処分場計画を進めようにも福島第1原発事故で国民の不安感・不信感が湧きあがった現状ではそれも難しい、と一見すれば八方塞にも等しい状況の中、今年5月9日付の毎日新聞が「核処分場:モンゴルに建設計画 日米、昨秋から交渉 原発ビジネス拡大狙い 」という興味深いニュースを報じた。

このモンゴル核燃料処分場計画については、その後、当のモンゴル政府自身が否定しているという報道もあったが(注1)、以下に掲げた2011年7月18日の共同通信の報道を見ると、計画は死んではいなかったようである。
モンゴル産のウラン燃料を原発導入国に輸出し、使用済み核燃料はモンゴルが引き取る「包括的燃料サービス(CFS)」構想の実現に向けた日本、米国、モンゴル3カ国政府の合意文書の原案が18日明らかになった。モンゴル国内に「使用済み燃料の貯蔵施設」を造る方針を明記し、そのために国際原子力機関(IAEA)が技術協力をする可能性にも触れている。

モンゴルを舞台としたCFS構想が実現すれば、核燃料の供給と、使用済み燃料の処分を一貫して担う初の国際的枠組みとなる。福島第1原発事故を受け、当面は構想の実現は難しいとみられるが、民間企業も含め後押しする動きが依然ある。

個人的には、自国内で処分できなかった放射性物質を、相手の合意を取り付けた上とは言え、他国にたらい回すことには何となく釈然としない思いがあるものの、当のモンゴル政府の視点に立って考えると、この「核燃料処分場計画」が安全保障面から見て極めて面白い一手であることに気づいた。

まずモンゴルという国の地勢を確認すると、地図を見れば一目瞭然のように、四方のうち北をロシア、東西南を中国に囲まれた内陸国となっている。ここから、モンゴルという国の独立や安全保障にはロシアと中国が大きな影響を与えているであろうことを読み取るのは難しくない。


次にモンゴルという国の歴史、特に近現代史を振り返ると、それは中露の支配とそこから逃れようとする歴史であった。
長く清王朝の支配下にあったモンゴル人たちは、19世紀になって清王朝の支配力が凋落するや、漢人商人の経済的収奪や漢人農民の違法な入植にひどく悩まされることとなり、加えて北のロマノフ朝ロシアからの脅威についても清朝政府の保護を期待することができなくなるという困難な状況下に置かれる。やがて、こうした状況に不満を募らせたモンゴル人たちは独立運動を起こし、遂に1924年にソ連の後援を受けてモンゴル人民共和国の独立を宣言するに至った。
だが、この独立はソ連が新たなモンゴルの支配者となったことを示す以外のものではなかった。文字を始めとしたモンゴル固有の文化はことごとくソヴィエト・ロシア式に染め変えられ、民族の英雄であったチンギス・カンもソ連の指導下「残虐な殺戮者」という烙印が押され、対外的には「モンゴルはソ連第16番目の共和国」とみなされた。更に1960年以降中ソ対立が深まって来ると、モンゴルには多くのソ連軍が駐留し、北京に突きつけた匕首の役目をも背負わされたのである(注2)。
このソ連の軛からモンゴルが脱するには、冷戦とソ連の崩壊を待たねばならなかった。

以上のように、南北を中露に囲まれた地勢とその歩んできた歴史を振り返れば、現在のモンゴルの為政者にとって「中露の容喙・干渉を如何に防ぐか?」が極めて重要な意義を有していると想像される。だが悲しいかな、軍事力、経済力、人口、その他様々な指標を見ても、モンゴルが独力で中露に抗していくことは夢想の世界の出来事でしかない。だからこそモンゴルは、中露に対抗できる大国として米国との友好関係に心を砕いてきた。タリバン政権崩壊後のアフガンやイラク戦争において、モンゴルが米国陣営の一員として派兵に踏み切ったのは、その極めて分かり易い例である。

では、上記の如き地勢、歴史から派生した現在モンゴルの外交戦略に件の「核燃料処分場計画」を位置づけてみたらどうなるか?
もし仮にモンゴルの地に日米の核燃料処分場ができれば、それはモンゴルという国が米国とその与国たる日本のエネルギー政策に強く紐付けられたことを意味する。そんな国に対して中国やロシアが一方的な影響力拡大を図ったらどうなるか? 恐らく日米は中露のそうした目論見の打破に動くだろうし、その結果としてモンゴルの独立は守られることになる。
別の言い方をすれば、モンゴルが日米の核燃料処分場を受け入れるということは、中露に対しては「もし我が国を屈服させようとすれば、米国や日本が黙ってませんよ」というメッセージを送り、日米に対しては「貴方達の核燃料処分場を抱える我が国が、中国やロシアの言いなり・属国になったら困るでしょ?」というメッセージを送ることとほぼ等しいと考えられるのである。
つまり、モンゴルにとっての核燃料処分場は、中露が彼らの独立・安全保障に手を出してきた時、すかさず日米の反撃を浴びるように設けられたワイヤー・トラップだと位置付けられよう。

してみると、日米蒙核燃料処分場計画、単に「豊かな日米が貧しいモンゴルの頬を札束で引っ叩いて押し付けた案件」では片付けられない、モンゴル側のしたたかな狙いを含んだ案件なのかもしれない。

注釈
注1.新華社記事「蒙古国否认建核废料基地传言」参照
注2.なおモンゴル国境から北京までは大体590km弱。日本で言えば東京~岡山市間の距離に相当する。


参考資料
・共同通信 「使用済み核燃料をモンゴルに貯蔵 日米との合意原案判明」 2011年7月18日
・新華社 「蒙古国否认建核废料基地传言」 2011年5月11日
・毎日新聞 「核処分場:モンゴルに建設計画 日米、昨秋から交渉 原発ビジネス拡大狙い」 2011年5月9日

2011年7月18日月曜日

第三百七十七段 中東一帯の原発動向

増え続ける電力需要対応への切り札とされながら、福島第1原発事故以来、建設見直しや建設計画続行等各国ごとに様々な動きの出てきた原発について、特に中東の最近の動向についてまとめてみようかと思う。


イラン
・ブシェール原発(地図中黄色四角1)
1号機が完成済み。建設計画の発端は、70年代の王制時代まで遡る。ドイツKWU設計を基礎として露アトムストロイエクスポルト(以下ASEと表記)が建設した。炉の形式はVVER-1000で出力は1000MW。本来は99年稼働開始予定だったが、技術的な問題に加え、所謂「イラン核兵器開発疑惑」も絡んで度々の遅延が発生し、現在では運転開始は2011年8月からとされている。
・イラン核兵器開発疑惑
イラン政府は自国の核開発について一貫して「民生目的」である旨を主張しており、「何故ガスや石油が豊富なのに原発が必要となるのか?」といった疑問については、「ガスや石油を外貨獲得手段に特化させるため、国内電力需要を原発で補おうとしているのだ」という旨のそれなりに筋の通った説明をしている。
ただし、欧米諸国やイスラエル等に対する攻撃的な言辞、国際的に「テロ組織」と見なされているヒズボラやハマスとの関係、核弾頭搭載可能な弾道ミサイル戦力の拡充といった要素から、各国の「イランは核兵器を保有しようとしているのでは?」という懸念を解くには至っていない。
なおイランの核関連施設の分布については、以前著者が作成した地図を参照頂きたい。

UAE
・ブラカ原発(地図中黄色四角2)
建設を巡って日立GE、アレバの二社に加え、韓国電力公社、サムスン・エンジニアリング、現代建設、斗山重工からなる韓国連合が入札に参加するが、最終的には韓国連合が落札した。契約内容としてはARP-1400炉4基(出力は1基当たり1400MW)の建設、引渡、燃料供給を200億ドルで提供する他、60年の共同運転サービスを200億ドルで提供するものと推定されている。1号機の稼働開始は2017年が予定されている

ヨルダン
・マジデル原発(地図中黄色四角3)
今後30年内に1000MW級商業炉4基を建設する計画を立てている。建設予定地は当初は南部のアカバ近郊とされていたが、最近アンマンから40kmほど北に向かう同地に変更された(注1)。1号機については2013年着工と2018年運転開始を見込んでいる。現在、建設受注を巡って三菱重工・アレバの日仏連合、ASE、カナダ原子力公社を中心としたカナダ連合の三者が争っている。当初は日仏連合が優位に交渉を進めているとされてきたが、東日本大震災に伴う福島第1原発事故の影響で日本政府の「原発輸出」方針に揺らぎが生じている。これに危機感を覚えたヨルダン側は日本に対して「早急な原子力協定締結の早急な承認」を求める等しているが(注2)、この求めに日本が応じる可能性は低いと考えられ、他陣営にとっては逆転の余地が生じてきた感がある。
なお、湾岸諸国とは対照的に化石燃料には恵まれてこなかったヨルダンだが、最近になって有望なウラン鉱脈が存在することが判明し、昨年にはアレバが同国政府からウラン採掘権を獲得している(注3)。

エジプト
・エル・ダバア原発(地図中黄色四角4)
当初予定では2025年までに1000MW級商業炉4基の建設、1号機の運転開始は2019年とされ、日仏露中韓企業が応札に関心を示していた。一時は「原発建設は露、技術者訓練については米仏中韓企業がそれぞれ受注の見込み」とも報じられていたが(注4)、2011年1月のムバラク政権崩壊後は計画が停滞しているようである。

トルコ

・アックユ原発(地図中黄色四角5)

・シノップ原発(地図中黄色四角6)
地中海沿岸のアックユ原発については露ASEが建設を受注した。AES-2006炉4基を建設予定(1基当たり出力は1150MW)。1号機の運転開始は2017年を予定している。
黒海沿岸のシノップ原発建設計画については、当初韓国電力公社が受注すると見られていたが、結局価格交渉等で折り合いがつかずに韓国電力公社は当該案件から撤退。それを受けて東芝が新たな受注有力候補として浮上するが、今年7月14日になって日本政府が「ブラジル、インド、南アフリカ、UAE、トルコと進めている原子力協定締結交渉を凍結する」方針を示したこともあって事態は未だ流動的である(注5)。
なお「原子力年鑑2011年版」によると、トルコは他に黒海沿岸のイグネアダという場所での第三の原発建設を検討しているとの由。

アルメニア
・メタモール原発(地図中黄色四角7)
・ギュムリ核燃料サイクル施設(地図中黄色四角8)
メタモール原発はアルメニア首都エレバンから西方30kmに位置する。旧式のVVER-440炉2基からなる(出力は1基当たり40.8万KW)。1988年の大地震を機に89年に2基とも閉鎖されるが、その後電力危機が深刻化したこともあって95年に2号機のみ運転が再開された。ただし、周辺国には施設老朽化や大地震による事故発生を警戒する声も強く、2011年6月には隣国アゼルバイジャンの環境・天然資源相が「アルメニアが旧式の原発を稼働させ続けていることは全世界への脅迫にも等しい」という旨の非難を発している(注6)。
なお同国の原発についてはシノドス・ジャーナルに掲載されている廣瀬陽子氏の「世界でもっとも危険な原発、アルメニア原発」が詳しい。

以下、地図中には記載なしの国々。

イスラエル
中東における現状「唯一の核兵器保有国」と目されているが、同国政府がこれを公式に認めたことはない。南部ネゲブ砂漠に出力300万~500万KW級の商業炉を建設する計画を有していたが、2011年3月18日、ネタニヤフ政権は福島第1原発事故を受けて同建設計画を断念した(注7)

イラク
1981年6月7日、サダム政権が核兵器開発の一環としてタムーズに建設中であったオシラク原発がイスラエル空軍の空爆によって破壊されたのは有名な話。その後もサダム政権は核兵器開発の意図を捨てていなかったようだが、湾岸戦争やそれに続くIAEAの査察等によって結局実現は阻まれている。2003年のイラク戦争でサダム政権が打倒されて後は、核兵器開発は勿論、民生開発についても具体的な動きは報じられていない。
なおオシラク原発の所在とイスラエル空軍の空爆ルートについては、以前著者が作成した地図を参照頂きたい。

サウジアラビア
具体的な建設予定地等は不明だが、2030年までに原子炉16基の建設する計画があることが報じられている(注8)。建設コストとしては1基当たり70億ドルを見込んでいる模様。

シリア
イランと並ぶ「核開発疑惑国」。2007年9月6日にイスラエル空軍が空爆した施設が「原子炉であった可能性が濃厚」という旨の報告をIAEAが2011年5月25日になって出している。なお「シリアの核開発には北朝鮮が関与している」という見方も根強い。民生用核開発については具体的な動きは報じられていない。

スーダン
豊富な油田地帯を擁する南部地域が2011年7月9日に独立した。それによるエネルギー不足への対処等を目的としたものか、2010年8月22日、2020年までに原発を建設する計画があることが報じられている(注9)。具体的な建設予定地や基数は不明。


注釈
注1.The Jordan Times紙記事「Jordan receives nuclear reactor bids」参照
注2.共同通信社記事「日本は早急な協定承認を ヨルダン原発で、エネ相」参照
注3.miningne.ws記事「France's Areva gets Jordan uranium mining rights」参照
注4.Global Arab Network記事「Egypt, Russia - Training Cooperation in Nuclear Power」参照
注5.共同通信社記事「原子力協定締結交渉見合わせ ブラジルなど5カ国と」参照
注6.News.Az記事「Baku slams Armenian nuclear plant」参照
注7.共同通信社記事「イスラエル原発計画の中止決定 福島第1原発の事故受け」参照
注8.RIA Novosti記事「Saudi Arabia to build 16 nuclear reactors by 2030」参照
注9.The Jerusalem Post記事「Sudan plans nuclear program」参照


参考資料
・Global Arab Network 「Egypt, Russia - Training Cooperation in Nuclear Power」 2010年7月9日
・miningne.ws 「France's Areva gets Jordan uranium mining rights」 2010年2月22日
・News.Az 「Baku slams Armenian nuclear plant」 2011年6月6日
・RIA Novosti 「Saudi Arabia to build 16 nuclear reactors by 2030」 2011年6月1日
・The Jerusalem Post 「Sudan plans nuclear program」 2010年8月22日
・The Jordan Times 「Jordan receives nuclear reactor bids」 2011年7月1日
・共同通信社 「イスラエル原発計画の中止決定 福島第1原発の事故受け」 2011年3月18日
・共同通信社 「日本は早急な協定承認を ヨルダン原発で、エネ相」 2011年6月27日
・共同通信社 「原子力協定締結交渉見合わせ ブラジルなど5カ国と」 2011年7月14日
・日本原子力産業協会 「原子力年鑑2011年版」 2010年11月 日刊工業新聞社

2011年7月10日日曜日

第三百七十六段 革命線ベオグラード発トビリシ・キエフ経由カイロ行?

かつてボスニア紛争、コソボ紛争と紛争の嵐が吹き荒れた旧ユーゴスラビアに、ミロシェビッチという政治家がいた。彼はセルビア民族主義の波に乗ってNATOと対峙し、先進国世論からは「民族浄化」の元凶として総スカンを浴びつつも、軍や治安・情報機関の掌握を背景に約10年にわたってセルビア共和国の最高権力者として君臨した。
だが、NATOの軍事制裁や欧米等諸国の経済制裁によるセルビア共和国窮乏化は、着実に、セルビア国民の心中にミロシェビッチ政権への不満を堆積させていき、2000年のセルビア共和国大統領選においてミロシェビッチ陣営に選挙不正があったことが判明すると、遂に国民の不満は爆発し、所謂「ブルドーザ革命」が発生してミロシェビッチは大統領の座を野党側候補に明け渡さざるを得なくなる。
そして大統領辞職後のミロシェビッチは、セルビアと西側諸国との関係修復の交換材料にされる形でオランダ・ハーグの国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に身柄を移送され、そこでの収監中、2006年に心臓発作にて65年の生涯を終えている。

このミロシェビッチ大統領を権勢の頂点から奈落の底へとつき落とす契機となった「ブルドーザ革命」に大きな役割を果たしたのが、ベオグラード大学の学生たちが起こした反ミロシェビッチ運動「オトポール!」である。彼らの活動によって対外強硬派であったミロシェビッチ大統領を引き摺り下ろされたことで、一連の紛争によって悪役イメージが固定してしまったセルビア共和国の国際社会への復帰が可能となった一方、米国を中心とした各国の政府機関やシンクタンク、NGOから資金等援助を受けたことも報じられている、毀誉褒貶様々な評価がある運動でもある。

そんな「オトポール!」の中心的メンバーが、ミロシェビッチ政権崩壊後、「ブルドーザ革命」で使用した手段やノウハウ、経験を旧ソ連諸国の反政府運動に提供し、グルジア・バラ革命やウクライナ・オレンジ革命の原動力の一つとなったことは過去度々報じられている。そこに、ひょっとすると新たな成功談が加わるかもしれないという話がある。

「季刊アラブ」という雑誌の2011年夏号に、元「オトポール!」運動の中心人物の一人にして現在「非暴力活動戦略応用センター(略称CANVAS 所在地ベオグラード)」というNGOの代表を務めるスルジャ・ポポビッチ氏のインタビュー記事が掲載されていたのだが、その中でポポビッチ氏は、今年年初に発生したエジプト・ムバラク政権崩壊について、概ね以下のような証言をしている。

・2009年7月にエジプトの若者10名が、CANVASが提供している政治活動ノウハウについてのセミナーを受講した(セミナーは5日間にわたって行われた)。
・CANVASは「政権の支柱を特定し、そこに食い込みつつ政治運動を展開する手法」を重視しているが、件のセミナー受講生を含む、「タハリール広場」を主導した活動家たちは、軍の取り込み、労組や野党勢力との関係構築、宗教・宗派の際を超えるための「我々はエジプト人」というメッセージの採用といった有効打を多く決めた。
・CANVASがエジプトの活動家以外に、チュニジアやシリアの活動家ともコンタクトを取っている。

仮にこれらが事実だとすると実に興味深い話である。

無論、CANVASが伝授した運動ノウハウがいかに優れたものであったとしても、「5日間のセミナーを受けた10人」の活躍だけを以て、あのタハリール広場で起き、広がったこと全てを説明するというのはやや無理があろう。
だが一方で、シリアやイエメン、リビアといった国々の軍に比べ、当時のエジプト軍のデモ側に対する姿勢が抑制的であったことを始めとして、事前に政府部門の少なくとも一部とデモ側との間の何らかの意思疎通があったと考えた方が分かり易い部分もあることを考えると、デモ側に他国NGOからのノウハウ取得、政府部門との非公式接触といった年単位で積み重ねられた周到な準備があっても不思議ではないと考えられる。

今後、ムバラク政権崩壊の余燼がおさまっていく中、エジプト政変劇について、外部からの働き掛けを含め、如何なる新事実が発見・公表されてくるのか、非常に楽しみである。


参考資料
・日本アラブ協会 「季刊アラブ」No.137 2011年

2011年7月6日水曜日

第三百七十五段 バダフシャン来し方行く末

2011年6月23日付の共同通信「ロシア・東欧ファイル」に興味深い話が載っていた。それは、米国が、中国を主要標的とした通信傍受等施設をバダフシャン・ムルガブ地区に設置することを狙い、タジキスタン政府に働き掛けを行っているらしいというものである。

バダフシャン、なんとなく異国情緒を掻き立てる言葉の響きだが、これは現在のタジキスタン・ゴルノ・バダフシャン自治州とアフガニスタン・バダフシーャン州にかけて広がる高原地帯の名称であり、アフガン側においては、アフガン北部同盟の指導者として名を馳せたマスード将軍がアフガン・バダフシャーン州に拠点を置き、タジキスタン側においては、各種イスラム武装勢力がゴルノ・バダ フシャン自治州に拠って、それぞれタリバンやタジキスタン政府といった敵対者に頑強な抵抗を続けてきた、或いは続けている場所である。


そんな当該地帯は、上記の地図からも窺えるように、中央アジアの草原地帯とオアシス地域、そしてヒンドスタン(パキスタン及びインド北部からなる一帯)やカシミール繋ぐルート上に位置する要衝で、その地誌については13世紀~14世紀の大旅行家マルコ・ポールの口述をまとめた「東方見聞録」が以下のような証言を遺している(注1)。

1.住民はイスラーム教を奉じている。
2.当地域の王家はアレクサンダー大王とペルシャ王ダリウスの娘の子孫であり、「アレクサンダー」が訛った「ズルカーネイン」という称号を受け継いでいる。
3.「バラス紅玉(注2)」という宝石を産出し、その私掘・輸出には死刑と家産没収が課される。
4.碧玉や「群青の原石(注3)」、銀、銅、鉛の鉱脈を有する。
5.険しい山や草木の繁茂により、一大要害地域となっている。
6.頑強で走力に優れた良馬を産出する。
7.住民は弓箭に巧みで狩猟に秀でている。

前述のマスード将軍や、タジキスタンのイスラム武装勢力が、この地域を根城としてタリバンやタジキスタン政府といった敵対者に頑強な抵抗を続けることができた理由が、このマルコ・ポールの証言からも想像できよう。

このように交通の要衝、良馬の産地、豊かな鉱物資源といった利点を兼ね備えるバダフシャン地方は、エフタルからモンゴル帝国、そしてジュンガルに至るまで、古来より数多くの遊牧騎馬勢力が攻略対象や遠征時の拠点として重視してきた土地でもあった。

例えば、モンゴル帝国の始祖として名高いチンギス・カンの一代記たる「元朝秘史」で、彼のホラズム遠征(1219~1222年)を語る箇所に以下のような記述がある(引用文内の括弧追加及び後略は著者による)。
チンギス合罕はシン河(インダス河)を遡り進んでバドケセン(バダフシャン)を掠め取って行き、母川、牝馬川に至ってバルアン草原(バダフシャンに同名地複数あり)に下営して、ヂャリヤル族のバラをして、ヂャラルディン国王、カン・メリグを追撃せしむ遣わし・・・・(後略)

また、16世紀中央アジアにおいて、チムール朝の王子バーブルが対立する一族の者やウズベク族の攻撃を受けてカブールまで撤退を余儀なくされ、敵の圧迫から脱するために新たな進出先を探った際、候補の一つに挙がったのが、バダフシャン地方であった。この時の様子をバーブルの回顧録「バーブル・ナーマ」は以下のように伝えている(括弧追加は著者による)。
シャイバク・ハーン(ウズベク族指導者)は来攻して,ナースィル・ミーレザーをカンダハールに包囲した。この情報がとどくと、私はただちにベグ(大臣)たちを呼んで相談した。 以下のような事が議論された。ウズベクとシャイバク・ハーンの如き、異国の、古くからの敵が、ティムール・ベグの子孫らの手中にあった全ての諸地方を領有している。 諸地方の一角やひと隅になお残っていたトルコ人やチャガタイ人も、いまやその内の若干の者たちは自ら希望して、また若干の者たちはいやいやながら、ウズベクに合流してしまった。ただひとり私のみがカーブル(現在のアフガン首都)に残っていた。 敵はきわめて強力であり、私たちはまことに弱体であった。 和議を結ぶだけの力も無く,また抵抗するだけの力も無かった。あのような強大・強力な散であった。私たちは、私たち自身のために、どこか1つの土地を考えねばならなかった。 このような逆境において,強力な敵から私たちは少しでも遠くへ離れる必要があった。バダフシャーン方面か、あるいはヒンドゥースターン(現在のパキスタン及び北インド)方面ヘ向かう必要があった。この2つの方面の内1方面に進む事を決める必要があった。

カースィム・ベグ、シーワーム・ベグは、その配下の者たちと共に,バダフシャーンに向かう事lこ同意した。当時,バダフシャーンで有力であったのは、バダフシャーン人の内ではムバーラク・シャーとズバイルであった。さらにジャハーンぎーる・トゥルクメンとムハンマド・コルチがいた。彼らは先にナースィル・ミーレザーをバダフシャーンから追い出していた。しかし彼らはウズベクにも投降しないでいた。私と若干の近習ベグたちはヒンドゥースターン方面に行く方がよいと考え、ラムガーンに向かう事にした。
結果的に、バーブルの決断は成功し、彼並びにその子孫はインド亜大陸に強大な王朝を築くことになる。それが今日「ムガル帝国」と呼ばれるものである。このムガル帝国が後のインド史に与えた影響を考えると、彼の「バダフシャーンではなく、ヒンドスターンに侵攻する」という決断は実に大きな歴史的意味があったと言えよう。

やがて19世紀帝国主義の時代となって中央アジアの大半がロシア領、インド亜大陸が英領となると、中央アジアから中東、北インドにかけての一帯で英露間の勢力争い、所謂「グレートゲーム」が繰り広げられるようになり、露領中央アジアと英領インドに挟まれたアフガニスタンの帰趨に列強の注目が集まることになる。そのアフガンを自陣営に引き込むため、英露は様々な外交や軍事力行使を試みて張り合うが、足許の欧州において、ビスマルク外交の余韻に飽き足らないドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の野心的な対外拡張政策が露わになってくるや、英露間に妥協の機運が生じる。
最終的に英露両国は、互いの領土が直接接触することに起因する緊張の発生・激化を予防するため、国境線の調整を行い、アフガニスタンを両国を隔てる衝立とすることで合意するが、その結果、従来一つの地域的なまとまりであったバダフシャン地方は、爾来、ロシア領(後にソ連領を経てタジキスタン領)とアフガニスタン領に分割されてしまうこととなる(注4)。

その後、世界は二つの世界大戦、冷戦の始まりとその終わり、イスラム主義の勃興という大きな歴史の流れに揉まれていき、アフガニスタンやその周辺地域も、そうした世界の動きと同調しながら、ソ連のアフガン侵攻やタリバンの勃興、2001年9月11日の米国中枢同時多発テロとそれに対する反撃としての米国のアフガン侵攻とカルザイ政権の成立といった波乱の歴史を歩んでいく。その中でバダフシャン地方は、アフガン側を見れば、ソ連のアフガン侵攻における激戦地の一つとなり(注5)、アフガン・タリバンに粘り強く抵抗してそのアフガン統一を阻止しきったマスード将軍の地盤となり、タジキスタン側を見れば、イスラム主義国家の建設を掲げて現行政府と度々衝突してきた反政府武装勢力の根拠地となるといった具合に、往時と変わらぬ地政的な重要性を発揮し続けてきた。

斯くの如き経歴を刻んできたバダフシャンに今回浮上してきたのが、冒頭で触れた「米国の対中通信傍受等施設設置」という話である。
相対的な衰え等が見受けられるとしても米国が依然として世界最大の軍事的・経済的パワーであって、諸国にとっては敵に回すよりは味方とした方が、経済面や政治的安定に得るものが多いことは贅言を要しない。一方で当該通信傍受等施設の主な標的とされる中国は、タジキスタン政府にとってSCOや2国間協力を通じた対イスラム過激派対策のパートナーであり、同時に、年間33億ドルにのぼる輸入の25.9%を占める有力貿易相手国でもある。更に中央アジアに伝統的に深い繋がりや利害を有するロシアやインドもまた、こうした米国の動きには無関心ではいられないだろう(注6)。
従って、もし共同通信社の報道が事実だとすれば、タジキスタン政府は、解くのに実に難儀しそうな毛糸玉を米国から投げつけられた格好だと言えるのかもしれない。
折も折、米国とその与国のアフガン駐留軍撤退が迫る中、新たな「グレートゲーム」の回転軸として、タジキスタン並びにバダフシャン地方の今後の動向に関係筋の注目が集まりそうである。


注1.「東方見聞録」には「バラシャン」という名称で紹介されている
注2.所謂ルビーのこと
注3.所謂ラピスラズリのこと
注4.アフガン・バダフシャン州の東に細長く伸びた地域、所謂「ワハーン回廊」がアフガニスタン領となったのは、この時の英露妥協の産物とされる。

注5.1979年12月24日にソ連はアフガンへの軍事介入を開始するが、早くも1980年1月6日にはソ連空挺部隊がアフガン・バダフシャン州に展開している。その後も同地の支配を巡って、ソ連軍とゲリラは激しい攻防を繰り広げた。
注6.なお印露はタジキスタン政府に対し、同国アイニ空軍基地の使用許可を求めてそれぞれ働きかけを行っている。なお同基地の使用については他に米仏中イランも関心を示しているとされる。

参考資料
・EurasiaNet 「Is India Out of the Game in Tajikistan?」 2010年12月1日
・アジア経済研究所 「アジア動向データベース > 1980年 > アフガニスタン>重要日誌」  
・マルコ・ポーロ 「東方見聞録」1巻 愛宕松男訳 1970年3月 平凡社
・間野英二 「『バーブル・ナーマ』の研究 (II) : 「カーブル章」日本語訳」 1984年3月(「京都大學文學部研究紀要」23所収)
・共同通信社 「ロシア・東欧ファイル」 2011年6月23日
・無名氏 「元朝秘史」下巻 小沢重男訳 1997年8月 岩波書店

2011年7月1日金曜日

第三百七十三段 日経平均とケシ作付面積の不思議な関係

「う~~ニュースニュース」
今ニュースを求めて全力ネットサーフィンしている僕は、ごく一般的な世捨て人。
強いて違うところをあげるとすれば、国際政治に興味があるってとこかナー。
名前は点額法師。


そんなわけで、いつもの巡回先たる共同通信サイトにやって来たのだ。

ふと見るとそこに一つの面白そうなニュースが載っていた。
【ロンドン共同】国連薬物犯罪事務所(UNODC)は23日、2011年版「世界薬物報告」を発表し、ヘロインやアヘンの原料となるケシの主要栽培国であるミャンマーで、10年のケシの作付面積が過去15年間で最も減少した06年比で約77%増の3万8100ヘクタールに達したことを明らかにした。
 ケシの世界最大の栽培地であるアフガニスタンでは、10年の作付面積は近年で最大だった07年に比べ約36%減少したが、依然として世界全体の約63%を占めた。10年の世界全体での作付面積は09年比5%増で、同報告は「09年比20%増のミャンマーが主要な要因」と指摘した。

ウホッ! いいニュース・・・

そう思ってると、突然そのニュースにあるアルファベットの連なりが僕に囁きかけてきたのだ・・・!

UNODCのサイト、いかないか

そういえば最近のネットはぐーぐる先生のおかげで検索が非常に楽ちんなことで有名だった。
いいニュースに弱い僕は誘われるまま、ホイホイと検索をかけちゃったのだ。

こんなこと初めてだけどいいんです・・・・
僕・・・・UNODCが扱ってるみたいな分野、好きですから・・・・

予想どおりにUNODCサイトはすばらしい情報満載だった
僕はというと、数々のデータから与えられる快感の波に身をふるわせてもだえていた。

そのうち、「いいこと思い付いた! お前、この資料の数字でグラフを作ってみろ」という啓示が降りてきた(気がした)ので、早速作ってみたのが以下のグラフ。棒グラフがアフガニスタン及びミャンマーのケシ作付面積推移、線グラフが両国合計でのケシ作付面積推移である(注1)。


このグラフを見ていてふと脳裏に浮かんだのが、「同時期の日経平均株価推移とアフガン・ミャンマーケシ作付面積合計推移を比べてみたらどうなるか?」というささやかな疑問。そこで早速、「男は度胸! なんでも比べてみるのさ」とばかりに、早速同時期の日経平均株価を引っ張ってきて比較してみた。

それが以下のグラフ。これを見てくれ。こいつをどう思う?


すごく・・・そっくりです。

いや、そっくりというか日経平均がどうもアフガン・ミャンマーケシ作付面積合計に先行して変化しているようにも見える。そこで「このままじゃおさまりがつかないんだよな」とばかりに、日経平均株価のグラフを一年分右側(未来方向)に動かしてみた。


益々 すごく・・・そっくりです(特に2005年以降)。

日経平均株価とアフガン・ミャンマーケシ作付面積合計、一見すると全く関係ないようなこの二つの数字が、なぜこうも類似した推移を見せるのか?

可能性として考えられるのは以下の二つ。

可能性1:たまたま、偶然の一致
世の中、膨大な数字データが存在する。となれば、全く関係なく動いている項目についても、「他人の空似」のように、偶然、ある時期の推移が似通うものがあっても不思議ではなく、今回はたまたまそれに当たったというもの。
ある意味、一番トホホというかしまらないケースではあるが、一概に「まさか、そんな偶然が・・・・」と切って捨てるのも危険であろう。

可能性2:日経平均株価とアフガン・ミャンマーケシ作付面積合計の間には共通の動因がある
このケシという作物は、言わずと知れたアヘンの原材料である。そしてそのアヘンは違法・合法、健康への影響といった論点があるものの、それらを無視すれば所詮一介の消費物であり、その需要引いては生産状況が景気動向に左右されるというのも考えられそうな話ではある。
そして日経平均株価に加えられている企業には、ハイテク部品・素材や自動車の生産・輸出で儲けを出している企業が多く、結果、世界経済の好不調に敏感な面があるとされる。
となれば、世界経済の好不調が共通の動因として、日経平均株価やケシ作付面積の推移を動かしており、前者の方がより世界経済の動向に敏感であるため、後者に先行した動きを見せる、という可能性を考えることができる。

現状、浅学非才の我が身としては可能性1、2のいずれが正しいのかを俄に判じることはできず、もうしばらく両者の推移を注視したい所だ。
もし本当にに日経平均株価がアフガン・ミャンマーケシ作付面積に先行して動くのであれば、2011年の作付面積は減少ということになる。果たしてその通りの展開になるのか、非常に興味深い。


注1.以前、同じようなグラフをTwitpicに掲載したのだが、この時のグラフは、ミャンマーについて1990~1992年のケシ作付面積データを見つけられないまま作ったため、若干しょんぼりな内容となっている。


参考資料
・UNODC 「Afghanistan - Opium survey 2010」 2011年1月
・UNODC 「Afghanistan opium survey 2004」 2004年11月
・UNODC 「Myanmar opium survey - June 2003」 2003年6月
・UNODC 「South-East Asia - Opium survey 2010 - Lao PDR, Myanmar」 2010年12月
・共同通信社 「ミャンマーのケシ栽培増加 4年で77%増、国連報告」 2011年6月23日
山川純一 「くそみそテクニック」 1987年(「ウホッ!! いい男たち ヤマジュン・パーフェクト」所収 2003年11月 ブッキング)
・日本経済新聞社 「日経平均プロフィル」