2011年7月6日水曜日

第三百七十五段 バダフシャン来し方行く末

2011年6月23日付の共同通信「ロシア・東欧ファイル」に興味深い話が載っていた。それは、米国が、中国を主要標的とした通信傍受等施設をバダフシャン・ムルガブ地区に設置することを狙い、タジキスタン政府に働き掛けを行っているらしいというものである。

バダフシャン、なんとなく異国情緒を掻き立てる言葉の響きだが、これは現在のタジキスタン・ゴルノ・バダフシャン自治州とアフガニスタン・バダフシーャン州にかけて広がる高原地帯の名称であり、アフガン側においては、アフガン北部同盟の指導者として名を馳せたマスード将軍がアフガン・バダフシャーン州に拠点を置き、タジキスタン側においては、各種イスラム武装勢力がゴルノ・バダ フシャン自治州に拠って、それぞれタリバンやタジキスタン政府といった敵対者に頑強な抵抗を続けてきた、或いは続けている場所である。


そんな当該地帯は、上記の地図からも窺えるように、中央アジアの草原地帯とオアシス地域、そしてヒンドスタン(パキスタン及びインド北部からなる一帯)やカシミール繋ぐルート上に位置する要衝で、その地誌については13世紀~14世紀の大旅行家マルコ・ポールの口述をまとめた「東方見聞録」が以下のような証言を遺している(注1)。

1.住民はイスラーム教を奉じている。
2.当地域の王家はアレクサンダー大王とペルシャ王ダリウスの娘の子孫であり、「アレクサンダー」が訛った「ズルカーネイン」という称号を受け継いでいる。
3.「バラス紅玉(注2)」という宝石を産出し、その私掘・輸出には死刑と家産没収が課される。
4.碧玉や「群青の原石(注3)」、銀、銅、鉛の鉱脈を有する。
5.険しい山や草木の繁茂により、一大要害地域となっている。
6.頑強で走力に優れた良馬を産出する。
7.住民は弓箭に巧みで狩猟に秀でている。

前述のマスード将軍や、タジキスタンのイスラム武装勢力が、この地域を根城としてタリバンやタジキスタン政府といった敵対者に頑強な抵抗を続けることができた理由が、このマルコ・ポールの証言からも想像できよう。

このように交通の要衝、良馬の産地、豊かな鉱物資源といった利点を兼ね備えるバダフシャン地方は、エフタルからモンゴル帝国、そしてジュンガルに至るまで、古来より数多くの遊牧騎馬勢力が攻略対象や遠征時の拠点として重視してきた土地でもあった。

例えば、モンゴル帝国の始祖として名高いチンギス・カンの一代記たる「元朝秘史」で、彼のホラズム遠征(1219~1222年)を語る箇所に以下のような記述がある(引用文内の括弧追加及び後略は著者による)。
チンギス合罕はシン河(インダス河)を遡り進んでバドケセン(バダフシャン)を掠め取って行き、母川、牝馬川に至ってバルアン草原(バダフシャンに同名地複数あり)に下営して、ヂャリヤル族のバラをして、ヂャラルディン国王、カン・メリグを追撃せしむ遣わし・・・・(後略)

また、16世紀中央アジアにおいて、チムール朝の王子バーブルが対立する一族の者やウズベク族の攻撃を受けてカブールまで撤退を余儀なくされ、敵の圧迫から脱するために新たな進出先を探った際、候補の一つに挙がったのが、バダフシャン地方であった。この時の様子をバーブルの回顧録「バーブル・ナーマ」は以下のように伝えている(括弧追加は著者による)。
シャイバク・ハーン(ウズベク族指導者)は来攻して,ナースィル・ミーレザーをカンダハールに包囲した。この情報がとどくと、私はただちにベグ(大臣)たちを呼んで相談した。 以下のような事が議論された。ウズベクとシャイバク・ハーンの如き、異国の、古くからの敵が、ティムール・ベグの子孫らの手中にあった全ての諸地方を領有している。 諸地方の一角やひと隅になお残っていたトルコ人やチャガタイ人も、いまやその内の若干の者たちは自ら希望して、また若干の者たちはいやいやながら、ウズベクに合流してしまった。ただひとり私のみがカーブル(現在のアフガン首都)に残っていた。 敵はきわめて強力であり、私たちはまことに弱体であった。 和議を結ぶだけの力も無く,また抵抗するだけの力も無かった。あのような強大・強力な散であった。私たちは、私たち自身のために、どこか1つの土地を考えねばならなかった。 このような逆境において,強力な敵から私たちは少しでも遠くへ離れる必要があった。バダフシャーン方面か、あるいはヒンドゥースターン(現在のパキスタン及び北インド)方面ヘ向かう必要があった。この2つの方面の内1方面に進む事を決める必要があった。

カースィム・ベグ、シーワーム・ベグは、その配下の者たちと共に,バダフシャーンに向かう事lこ同意した。当時,バダフシャーンで有力であったのは、バダフシャーン人の内ではムバーラク・シャーとズバイルであった。さらにジャハーンぎーる・トゥルクメンとムハンマド・コルチがいた。彼らは先にナースィル・ミーレザーをバダフシャーンから追い出していた。しかし彼らはウズベクにも投降しないでいた。私と若干の近習ベグたちはヒンドゥースターン方面に行く方がよいと考え、ラムガーンに向かう事にした。
結果的に、バーブルの決断は成功し、彼並びにその子孫はインド亜大陸に強大な王朝を築くことになる。それが今日「ムガル帝国」と呼ばれるものである。このムガル帝国が後のインド史に与えた影響を考えると、彼の「バダフシャーンではなく、ヒンドスターンに侵攻する」という決断は実に大きな歴史的意味があったと言えよう。

やがて19世紀帝国主義の時代となって中央アジアの大半がロシア領、インド亜大陸が英領となると、中央アジアから中東、北インドにかけての一帯で英露間の勢力争い、所謂「グレートゲーム」が繰り広げられるようになり、露領中央アジアと英領インドに挟まれたアフガニスタンの帰趨に列強の注目が集まることになる。そのアフガンを自陣営に引き込むため、英露は様々な外交や軍事力行使を試みて張り合うが、足許の欧州において、ビスマルク外交の余韻に飽き足らないドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の野心的な対外拡張政策が露わになってくるや、英露間に妥協の機運が生じる。
最終的に英露両国は、互いの領土が直接接触することに起因する緊張の発生・激化を予防するため、国境線の調整を行い、アフガニスタンを両国を隔てる衝立とすることで合意するが、その結果、従来一つの地域的なまとまりであったバダフシャン地方は、爾来、ロシア領(後にソ連領を経てタジキスタン領)とアフガニスタン領に分割されてしまうこととなる(注4)。

その後、世界は二つの世界大戦、冷戦の始まりとその終わり、イスラム主義の勃興という大きな歴史の流れに揉まれていき、アフガニスタンやその周辺地域も、そうした世界の動きと同調しながら、ソ連のアフガン侵攻やタリバンの勃興、2001年9月11日の米国中枢同時多発テロとそれに対する反撃としての米国のアフガン侵攻とカルザイ政権の成立といった波乱の歴史を歩んでいく。その中でバダフシャン地方は、アフガン側を見れば、ソ連のアフガン侵攻における激戦地の一つとなり(注5)、アフガン・タリバンに粘り強く抵抗してそのアフガン統一を阻止しきったマスード将軍の地盤となり、タジキスタン側を見れば、イスラム主義国家の建設を掲げて現行政府と度々衝突してきた反政府武装勢力の根拠地となるといった具合に、往時と変わらぬ地政的な重要性を発揮し続けてきた。

斯くの如き経歴を刻んできたバダフシャンに今回浮上してきたのが、冒頭で触れた「米国の対中通信傍受等施設設置」という話である。
相対的な衰え等が見受けられるとしても米国が依然として世界最大の軍事的・経済的パワーであって、諸国にとっては敵に回すよりは味方とした方が、経済面や政治的安定に得るものが多いことは贅言を要しない。一方で当該通信傍受等施設の主な標的とされる中国は、タジキスタン政府にとってSCOや2国間協力を通じた対イスラム過激派対策のパートナーであり、同時に、年間33億ドルにのぼる輸入の25.9%を占める有力貿易相手国でもある。更に中央アジアに伝統的に深い繋がりや利害を有するロシアやインドもまた、こうした米国の動きには無関心ではいられないだろう(注6)。
従って、もし共同通信社の報道が事実だとすれば、タジキスタン政府は、解くのに実に難儀しそうな毛糸玉を米国から投げつけられた格好だと言えるのかもしれない。
折も折、米国とその与国のアフガン駐留軍撤退が迫る中、新たな「グレートゲーム」の回転軸として、タジキスタン並びにバダフシャン地方の今後の動向に関係筋の注目が集まりそうである。


注1.「東方見聞録」には「バラシャン」という名称で紹介されている
注2.所謂ルビーのこと
注3.所謂ラピスラズリのこと
注4.アフガン・バダフシャン州の東に細長く伸びた地域、所謂「ワハーン回廊」がアフガニスタン領となったのは、この時の英露妥協の産物とされる。

注5.1979年12月24日にソ連はアフガンへの軍事介入を開始するが、早くも1980年1月6日にはソ連空挺部隊がアフガン・バダフシャン州に展開している。その後も同地の支配を巡って、ソ連軍とゲリラは激しい攻防を繰り広げた。
注6.なお印露はタジキスタン政府に対し、同国アイニ空軍基地の使用許可を求めてそれぞれ働きかけを行っている。なお同基地の使用については他に米仏中イランも関心を示しているとされる。

参考資料
・EurasiaNet 「Is India Out of the Game in Tajikistan?」 2010年12月1日
・アジア経済研究所 「アジア動向データベース > 1980年 > アフガニスタン>重要日誌」  
・マルコ・ポーロ 「東方見聞録」1巻 愛宕松男訳 1970年3月 平凡社
・間野英二 「『バーブル・ナーマ』の研究 (II) : 「カーブル章」日本語訳」 1984年3月(「京都大學文學部研究紀要」23所収)
・共同通信社 「ロシア・東欧ファイル」 2011年6月23日
・無名氏 「元朝秘史」下巻 小沢重男訳 1997年8月 岩波書店