2011年7月10日日曜日

第三百七十六段 革命線ベオグラード発トビリシ・キエフ経由カイロ行?

かつてボスニア紛争、コソボ紛争と紛争の嵐が吹き荒れた旧ユーゴスラビアに、ミロシェビッチという政治家がいた。彼はセルビア民族主義の波に乗ってNATOと対峙し、先進国世論からは「民族浄化」の元凶として総スカンを浴びつつも、軍や治安・情報機関の掌握を背景に約10年にわたってセルビア共和国の最高権力者として君臨した。
だが、NATOの軍事制裁や欧米等諸国の経済制裁によるセルビア共和国窮乏化は、着実に、セルビア国民の心中にミロシェビッチ政権への不満を堆積させていき、2000年のセルビア共和国大統領選においてミロシェビッチ陣営に選挙不正があったことが判明すると、遂に国民の不満は爆発し、所謂「ブルドーザ革命」が発生してミロシェビッチは大統領の座を野党側候補に明け渡さざるを得なくなる。
そして大統領辞職後のミロシェビッチは、セルビアと西側諸国との関係修復の交換材料にされる形でオランダ・ハーグの国連旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に身柄を移送され、そこでの収監中、2006年に心臓発作にて65年の生涯を終えている。

このミロシェビッチ大統領を権勢の頂点から奈落の底へとつき落とす契機となった「ブルドーザ革命」に大きな役割を果たしたのが、ベオグラード大学の学生たちが起こした反ミロシェビッチ運動「オトポール!」である。彼らの活動によって対外強硬派であったミロシェビッチ大統領を引き摺り下ろされたことで、一連の紛争によって悪役イメージが固定してしまったセルビア共和国の国際社会への復帰が可能となった一方、米国を中心とした各国の政府機関やシンクタンク、NGOから資金等援助を受けたことも報じられている、毀誉褒貶様々な評価がある運動でもある。

そんな「オトポール!」の中心的メンバーが、ミロシェビッチ政権崩壊後、「ブルドーザ革命」で使用した手段やノウハウ、経験を旧ソ連諸国の反政府運動に提供し、グルジア・バラ革命やウクライナ・オレンジ革命の原動力の一つとなったことは過去度々報じられている。そこに、ひょっとすると新たな成功談が加わるかもしれないという話がある。

「季刊アラブ」という雑誌の2011年夏号に、元「オトポール!」運動の中心人物の一人にして現在「非暴力活動戦略応用センター(略称CANVAS 所在地ベオグラード)」というNGOの代表を務めるスルジャ・ポポビッチ氏のインタビュー記事が掲載されていたのだが、その中でポポビッチ氏は、今年年初に発生したエジプト・ムバラク政権崩壊について、概ね以下のような証言をしている。

・2009年7月にエジプトの若者10名が、CANVASが提供している政治活動ノウハウについてのセミナーを受講した(セミナーは5日間にわたって行われた)。
・CANVASは「政権の支柱を特定し、そこに食い込みつつ政治運動を展開する手法」を重視しているが、件のセミナー受講生を含む、「タハリール広場」を主導した活動家たちは、軍の取り込み、労組や野党勢力との関係構築、宗教・宗派の際を超えるための「我々はエジプト人」というメッセージの採用といった有効打を多く決めた。
・CANVASがエジプトの活動家以外に、チュニジアやシリアの活動家ともコンタクトを取っている。

仮にこれらが事実だとすると実に興味深い話である。

無論、CANVASが伝授した運動ノウハウがいかに優れたものであったとしても、「5日間のセミナーを受けた10人」の活躍だけを以て、あのタハリール広場で起き、広がったこと全てを説明するというのはやや無理があろう。
だが一方で、シリアやイエメン、リビアといった国々の軍に比べ、当時のエジプト軍のデモ側に対する姿勢が抑制的であったことを始めとして、事前に政府部門の少なくとも一部とデモ側との間の何らかの意思疎通があったと考えた方が分かり易い部分もあることを考えると、デモ側に他国NGOからのノウハウ取得、政府部門との非公式接触といった年単位で積み重ねられた周到な準備があっても不思議ではないと考えられる。

今後、ムバラク政権崩壊の余燼がおさまっていく中、エジプト政変劇について、外部からの働き掛けを含め、如何なる新事実が発見・公表されてくるのか、非常に楽しみである。


参考資料
・日本アラブ協会 「季刊アラブ」No.137 2011年