2011年8月21日日曜日

第三百九十一段 「近い外国」が「緑の津波」に呑み込まれる日

一時は1バレル=150ドルに迫ろうかという勢いであった原油価格が、その後リーマンショックの混乱の中で1バレル=40ドルを割り込む水準へと下落したことも今は昔、その後2009年、10年、11年8月に至るまで原油価格が右肩上がりの堅調な展開を続けたこともあり、それを追い風としたロシアの軍事分野への予算投入も活発化している。
今年に入ってからは、フランスからのミストラル級揚陸艦の購入契約がその額や安全保障分野への影響から強い注目を集めたが、他にもロシアは、仏SAGEM社とは新鋭歩兵戦闘キット「フェリン」の売買交渉、仏バナール社や伊イベコ社とは軽装甲車両売買交渉をそれぞれ進め、独ラインメタル社との間では陸軍戦闘訓練センター建設契約を調印している(注1)。
また7月8日には、コーカサスや中央アジア山岳地帯での作戦行動が増えると考えたものか、スイスとの間で山岳部隊訓練における協力協定を調印した(注2)。

斯くの如き良好な経済環境に恵まれたロシアの防衛分野における積極的な動きについて、旧ソ連圏諸国、ロシアからは所謂「近い外国」と呼ばれる幾つかの国々は当然ながら対露警戒感を強めている。即ち、「高い石油の恩恵でよみがえったロシア軍が、再び自分たちを支配下に置こうと行動を起こすのではないか?」というわけだ。
一方で、ロシア軍が依然として個々の兵士の福利厚生やそれを背景にしたモチベーションの改善に成功しておらず、指揮・通信・監視・偵察における近代化・情報化でもNATO諸国等に比して立ち遅れた状態にあることも確かであり、こうした弱みがある限り、今進められているロシアの軍事能力拡張の動きは見かけ倒し以上のものにはなり得ないと指摘する声もある。
そうしたロシア軍にやや厳しい目を注ぐ一人である軍事専門紙「ボエンノ・プロムイシュレンヌイ・クリエール」紙の記者フラムチーヒン氏は、NATO諸国軍のアフガン撤退後を見据え、ロシアにとって不吉極まりない以下のような見通しを語っている(注3)。

1.新型自動指揮統制システムYeSU TZの開発・導入に遅延が発生する等、ロシア軍の現状は、効率的な指揮統制系統の確立に依然として遠い所にあり、NATO諸国軍撤退後のアフガンを起点として発生するであろうイスラム過激派の勢力拡大、所謂「緑の津波」が旧ソ連領中央アジアを呑み込んでいくことを阻止するだけの力を持ち得ない。

2.ロシアとイスラム過激派との抗争はタジキスタン、キルギス、ウズベキスタン南部にかけての山岳地帯やフェルガナ盆地を舞台として繰り広げられ、長期戦の末、タジキスタン、キルギス、ウズベキスタンがイスラム過激派の支配下に入るという結果で終わるだろう。

ロシアにとっては実に陰鬱な中央ユーラシアの未来予想図である。だが、「誰かの不幸は誰かの幸運」というのがこの世の習い。もしフラムチーヒン氏の予想が実現すれば、それは日韓台ASEAN諸国といった中国の海洋進出に神経を尖らすユーラシア極東部の国々にとっての僥倖となるかもしれない。
何故なら、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンでイスラム色の強い政権が成立することは、そのすぐ東に存在する中国領新疆のウィグル人たちを刺激せずにはおれないだろうし、イスラム過激派政権の支配下に入ったウズベキスタン、キルギス、タジキスタンは、北京政府に対して武装闘争も辞さないウィグル過激派にとって恰好の補給・訓練基地となると考えられる。その結果上手く新疆ウィグル自治区での分離独立闘争が活発化すれば、北京政府は安全保障上の重点を西方に移さざるを得なくなり、自然、東方の海洋部では自重した振舞いを余儀なくされると推測されるからだ。
更にもし欧米軍撤退後のアフガンでタリバンが支配権を確立したことに刺激され、パキスタンでもイスラム過激派の反政府武装闘争が活発化して一種の内戦状態に陥った場合、それは南アジアにおいて中国の”戦略的資産”(注4)が使い物にならなくなることを意味する。と同時に、中国の戦略的ライバルたるインドに核兵器等の安全確保等を名目としたパキスタン介入の大義名分を与えることにも繋がろう。

果たしてNATO諸国軍撤退後のアフガンを起点として「緑の津波」は巻き起こるのか、そして起きたとしたらそれはどの程度周りの国々を巻き込み、新疆ウィグル自治区を揺り動かすことになるのか、今後の展開が実に興味深い所である。

注釈
注1.当該戦闘訓練センターの建設コストは3.98億ドルが見込まれており、建設地はニジニーノブゴロド州ムリノとなっている。2013年には中隊レベル、2014年には大隊レベルの演習が可能となる予定である。またロシアは同種の訓練センターを各地に設置するため、ラインメタル社との間でライセンス取得交渉も進めている。
注2.なお、ロシアの山岳戦闘旅団は2007年に初めて編成され、現在ではダゲスタン・ボトリフに第33自動車化狙撃旅団、カラチャイ・チェルケシア共和国ゼレ ンチュクスカマに第34自動車化狙撃旅団を配置している。これら自動車化狙撃旅団は南部国境防衛支援を任務としている他、露南部ソチにおける2014年冬 季五輪の警備にも投入される予定となっている。北オセチアのアラニヤ、カバルジノ・バルカル、カフミンボドゥイ等に付属部隊が配置されている

注3.もし中央アジアでイスラム過激派の勢力拡大が始まった場合、これに対応するのはロシア軍中央軍管区(司令部エカテリンブルク)になる。中央軍管区は現状、戦車旅団1、自動車化狙撃旅団7(うち1つは現在解体中)、ミサイル旅団2、防空ミサイル旅団2、ロケット砲兵旅団1、貯蔵・修理基地5、クラスノヤルスク及びスベルドロフスクの予備戦車基地、ウリヤノフスクの第31空爆旅団といった戦力を擁しているが、フラムチーヒン記者は練度が低く、指揮系統等の近代化が進んでいない現状では、「緑の津波」を防ぐには能力不足であるとしている。
注4.中国にとってパキスタンは、対印牽制の駒、インド洋への出口という戦略的意義を有している。


参考資料
・共同通信 「ロシア・東欧ファイル」 2011年7月1日
・共同通信 「ロシア・東欧ファイル」 2011年7月22日
・共同通信 「ロシア・東欧ファイル」 2011年8月4日