2011年9月6日火曜日

第四百五段 エリュトゥラー海@21世紀

「エリュトゥラー海案内記」という書物がある。A.D.1世紀頃、エジプトにおいて貿易業に従事していた人物(伝不詳)によって執筆・編纂された書物で、当時「エリュトゥラー海」即ち「赤い海」と呼ばれたインド洋を舞台として繰り広げられた活発な交易活動がそこには記されている。

その「エリュトゥラー海」という古代の響きを今に伝えているのが、アラビア半島とアフリカ大陸を隔てる回廊状の海「紅海」である。現代においては、アラビア半島を挟んで反対側に位置する「世界のエネルギー供給源」ペルシャ湾が浴びる脚光に比してニュース等でもあまり取り上げられない地味な存在と化している紅海だが、その重要性はペルシャ湾に決して劣るものではない。

成るほど、確かに石油や天然ガスといったエネルギー資源の生産という面では遥かにペルシャ湾の後塵を拝する紅海だが、別の分野における重要性は同湾を凌駕するものとなっている。その別の分野とは、交通・物流、通信である。

まず紅海の北端はスエズ運河を通じて地中海と繋がり、豊かな一大消費地たる欧州と質量共に他を圧倒する製造業集積地と化したASEAN+3地域を結ぶ最短航路を形成していることは広く知られている(注1)。
その沿岸部に存在する港湾都市を見ていくと、サウジ・ジッダは同国の一大貿易拠点であると同時に世界人口約60億のうち12~13億人を占めるイスラム教徒が聖地メッカへの巡礼を行う際の玄関口としても機能しているし(注2)、スーダンの港湾都市ポートスーダンは今まで南スーダンで産出された原油の唯一の輸出拠点となって多くの原油を中国へと供給してきた(注3)

更に、大量の情報が瞬時に世界中を駆け巡って政治・経済に大きな影響を与える情報化社会の到来もまた、紅海に新たな重要性を付与するものとなった。というのも、以下の地図に明らかなように、紅海の海底には欧州と中東、インドを結ぶ通信ケーブル、謂わば「情報の大動脈」が走っているからである(注4)。

(出典:TeleGeographyによる)

以上のような交通・物流や通信の要衝という特性によって、この紅海地域には沿岸諸国は言うに及ばずそれ以外の各国の軍事拠点もまた多く設置されている。具体例としてはエリトリア・アッサブにはイラン海軍基地、アラビア海との結節地点に当たるジブチには米仏や日本等各国が対テロ或いは対海賊作戦用の拠点が挙げられる

そんな紅海の安全保障環境に最近注目すべき事態が生じている。それはエジプトの変化とイランの進出であり、両者の直接の引き金はエジプトにおけるムバラク政権の崩壊である

まずエジプトは、30年に及ぶ長期政権崩壊によってもたらされた混乱の中で、シナイ半島(そこにはスエズ運河や欧州・中東・インドを結ぶ通信ケーブルが通っている)における治安維持能力を大きく低下させた。これによってエジプトからイスラエル・ヨルダンに至るガス・パイ プラインへの攻撃が度々発生した他、ガザ地区への武器流入活発化を受けてパレスチナ武装勢力によるイスラエルへのテロ攻撃が頻発することとなった。
これを挽回するため、エジプトはシナイへの千人規模の戦車を含んだ兵力展開を行って治安回復作戦に乗り出したが、その過程で、活発化したガザからのロケット弾攻撃やテロに報復攻撃中のイスラエル軍機によってエジプト側が誤射を受けて死者が発生する事態が発生した。これを受けて、カイロではイスラエル大使館の周囲をデモ隊が取り巻き、大使館のあるビルに侵入した青年がビルからイスラエル国旗を引き摺り下ろす等抗議活動が過熱化しているものの、ムバラク政権崩壊をもたらしたデモの威力を目の当たりにしているエジプト政府はこうした抗議活動を鎮めるための施策を取れずにいる。

また、以前よりソマリア海賊に対する多国間活動への参加等を通じて外洋海軍への脱皮を図り、今年1月には紅海とインド洋を繋ぐジブチとの間で海軍分野における両国間協力の強化で合意したイランは、2月になると、ムバラク政権崩壊によって混乱中のエジプト政府に対して海軍艦艇のスエズ運河通行許可を求めてこれを獲得し、自国海軍をスエズ運河を経由して東地中海に面した友好国シリアへと派遣した。そして3月にはイラン海軍司令官が自国海軍の展開地域を従来のペルシャ湾やインド洋沿岸部から更に拡大させる意向を表明し、9月に入るや、それを裏付けるかのように「パトロールのため」と称して水上艦1隻と潜水艦1隻からなるチームを派遣することを発表している。
同時にイスラエルもまた、エジプト軍によるシナイ治安回復作戦の進捗が思わしくないことを受け、紅海沿岸部からのテロリスト侵入を阻止するため、海軍艦艇を紅海に派遣 しており、図らずもイスラエルとイランの海軍艦艇が直接対峙しかねない剣呑な情勢となっている。

以上のように、紅海沿岸諸国のうち、サウジやイスラエルと並ぶ親米国家であったエジプトにおいてムバラク政権が崩壊し、相対的にエジプトの紅海地域におけるプレゼンスが弱まっていること、そして同国において宗教勢力の台頭と軌を一にして反イスラエル感情が高まりつつあることは、今まで露骨過ぎるほど露骨に反イスラエル姿勢を示してきたイランにとって、紅海におけるプレゼンスを拡大するチャンスを提供するものとなっている。
そうなるとイスラエルが危機感を強めるのは勿論(注5)、湾岸諸国の盟主たるサウジもまた、前門のペルシャ湾・イラク方面に加えて後門の紅海でもイランの存在を意識せざるを得なくなるだろう。この両者共通の「対イラン懸念」は、ひょっとすると中東地域に新たな合従連衡の動きを顕在化させる触媒となるかもしれない(注6)。

注釈
注1.欧州とASEAN+3地域を最短で結ぶスエズ運河経由の航路だが、最近はソマリアやイエメンを根城とする海賊の跋扈により、警備費や保険費用といったコストが従来以上に嵩むようになっている。このことから、最近海氷の減退が進む北極海を通じた航路の実現に注目が集まっているが、その実現性やコスト等については不透明な部分もまだまだ多い。
注2.イスラム教徒のメッカ巡礼では、古くから紅海を経由したルートが活発であった。十字軍の活動が活発であった12世紀、これに目を付けたフランス出身の騎士ルノー・ド・シャティヨンは紅海に船団を浮かべ、メッカへの巡礼者や商船団への海賊行為に明け暮れた。
注3.なおNGO等の批判で度々クローズアップされてきたスーダン・ハルツーム政権と中国との石油を通じた関係だが、JOGMECの「南部スーダン独立と石油開発の行方」に記載されているデータを見ると、スーダンにとって中国は原油輸出量全体の65%を占める輸出先最大手となっており(2009年時点)、中国にとってスーダンは原油輸入量全体の5%を占める第5位の輸入相手となっている(2010年時点)。
注4.2008年1月末には、この欧州と中東・インドを結ぶ海底通信ケーブルの切断事故(原因については船の碇によるものとする説や地震説があるがはっきりとはしていない)が発生し、湾岸諸国やインドで大規模なインターネット接続障害を引き起こした。当該切断事故の発生した場所はエジプト・アレキサンドリア沖で厳密な意味での紅海地域ではないが、それでも紅海海底を走る通信ケーブルの重要性を推し量るには好適な事例と言えよう
注5.紅海北端にあるイスラエルの港湾都市エイラートと紅海本体を繋ぐチラン海峡がエジプト軍によって封鎖されたことが、第二次中東戦争及び第三次中東戦争勃発の重要な一因となったことを想起されたい。
注6.なお今までにも、イランの核開発に対して「サウジがイスラエル空軍のイラン核関連施設攻撃のための領空使用を許可した」「サウジ領内にイラン攻撃を目的としたイスラエルの拠点設置の動きがある」といった報道が流れているが、都度サウジ政府はこれら報道を強く否定している。


参考資料
・Al Arabiya 「Israel sends 2 more warships to Red Sea amid warnings of attacks from Egyptian soil」 2011年8月30日
・Ahram 「Egypt's Suez Canal achieves $449.2 million in July」 2011年8月10日
・Gulf News 「Eritrea denies training rebels for Iran and Yemen」 2010年4月21日
・Gulf News 「Saudi Arabia denies flight deal against Iran」 2010年6月12日
・Jerusalem Post 「'Israeli subs with nukes in Gulf'」 2010年5月30日
・Jerusalem Post 「'Saudi airspace open for Iran attack'」 2010年6月12日
・Jerusalem Post 「Is Israel arming in Saudi Arabia?」 2010年6月27日
・Jerusalem Post 「'Explosion hits natural gas pipeline in Sinai Peninsula'」 2011年7月30日
・Naval Technology 「Iran and Djibouti Agree to Boost Naval Cooperation」 2011年1月14日
・Naval Technology 「Iranian Navy to Expand Operational Zone」 2011年3月15日
・Naval Technology 「Iranian Navy vessels to patrol Red Sea」 2011年9月1日
・時事通信 「ジブチに新活動拠点=海賊対策で初の「海外基地」-自衛隊」 2011年5月30日
・新華社 「伊朗军舰通过苏伊士运河」 2011年2月22日
・池内恵 「中東 危機の震源を読む」 2009年7月 新潮社
・無名氏 「エリュトゥラー海案内記」 1993年10月(2011年6月改版) 中央公論新社 村上堅太郎訳注