2011年9月27日火曜日

第四百十二段 サファビー朝リコレクション

16~18世紀の中東、イラン高原を中心に周辺地域を支配したサファヴィー朝という王朝があった。最盛期には首都イスファハンが「世界の半分」と称えられるほどの繁栄を手にした王朝であったが、その繁栄は、決して偶然や僥倖の類によってもたらされたものではなかった。寧ろ、彼らの周囲は手ごわい地政学上の競争相手がひしめいていたのである。

まず西を見れば、そこにはメッカとメディナ、エルサレムというイスラム教の三大聖地を押さえ、イェニ・チェリという強力な常備軍を擁して遠く西欧ウィーン近辺にまで勢力を及ぼしていたオスマン帝国という存在があった。そのオスマン帝国とサファビー朝は、南コーカサスやクルディスタン(注1)、イラク地方の支配を巡って鋭く対立していた(注2)。
また南を見れば、遠くアフリカ南端の喜望峰を回ってインド洋に進出してきたポルトガルが、火砲とそれによって装備された帆船の威力を背景にペルシャ湾の出口たるホルムズ海峡を支配しようとしていた。
更に北東には、中央アジアの草原地帯を根城に度々イラン高原への南下を企ててきた遊牧騎馬勢力ウズベクという存在があった。
まさに周囲をぐるりと敵性勢力に囲まれた状態であったわけである。

こうした脅威群に対抗するため、サファビー朝の歴代君主たちは巧みな外交を展開してきた。
まず西のオスマン帝国を牽制するため、バルカン半島の支配権を巡ってオスマン帝国と競合していたハプスブルク帝国やハンガリー、更には中東貿易の拡大を狙っていた英国やオランダといった欧州諸勢力と手を結び、オスマン帝国を東西から挟撃する形成を作り出した(注3)(注4)。
また当時軍事技術の革新が活発であった英国やオランダからは積極的に最新鋭の銃火器類やその運用術(注5)を導入し、ポルトガルをホルムズ海峡から追い出し(注6)、中央アジアの草原地帯から押し寄せるウズベク族の侵攻を跳ね返すことに成功した(注7)。
更に東に対する動きを見ると、1544年、内紛によって北インドを逐われたムガル朝二代目君主フマーユーンが亡命を求めてきた。時のサファビー朝君主タフマースプ一世はこれを受け入れるのみならず、フマーユーンの勢力回復を支援さえした。この後援もあってフマーユーンは1555年、北インドの地に再度支配権を確立することに成功し、同時にサファビー朝は支援の代価として東部国境の安定を手にしたのだった(注8)。

そこから時は流れて幾星霜、21世紀の現在。911テロをきっかけとしてAfPakに足を踏み入れた当代最強の米軍は、911テロの首謀者たるウサマ・ビン・ラディンの殺害には成功したものの、国際テロ組織に恰好のシェルターを提供してきた「アフガンの不安定さ」を除去できぬまま同地から撤退を開始した。そして一部には、米軍撤退後のアフガニスタンを起点としたイスラム過激派の勢力拡大、所謂「緑の津波」が周辺の既存国境を大きく揺るがすだろうという予想も浮上している。

となると気になるのが、そのAfPak地域と東部国境で相接するイランの動きである。西部では長年の地政学的ライバルであったトルコとの関係改善を順調に進め(少なくとも現状では)、北方については中央アジアに今なお多大な影響力を有するロシアとの友好関係を維持し、南方に対してはシーア派住民の取り扱いを巡って湾岸諸国と対峙しているという状況下、彼らは今後激震も予想される東部国境の安定を如何に図っていくつもりなのだろうか? 彼らの前に「新たなフマーユーン」は姿を現すのだろうか?

注釈
注1.クルド人が多く居住するトルコ南東部からイラク北部、イラン北西部にかけての一帯。
注2.領土を巡る競合に加え、オスマン帝国はスンニー派、サファビー朝はシーア派をそれぞれ奉じていたことから、両者の対立にはイスラム教内の宗派対立の要素も存在した。
注3.無論、オスマン帝国側もこうしたサファビー朝やハプスブルク家の動きを挙手傍観していたわけではなく、彼らの対立相手であったフランスやウズベク族と連携するという対抗策をとっている。
注4.なおイラン高原を押さえる勢力が欧州の諸王国と結び、その間に位置する敵勢力を挟撃する形成を作り出すというパターンは、シリア・エジプトを支配するマムルーク朝と敵対したイルハン朝、アナトリアを支配するオスマン帝国と敵対したティムール朝の外交にも共通して見られるものである。
注5.サファビー朝軍における小銃・火砲戦力の整備・拡充については、アッバース一世治下における英国人アントニー及びロバートのシャーレー兄弟の活躍が有名である。
注6.16~17世紀における新教国英蘭と旧教国ポルトガル・スペインとの貿易・宗教を巡る対立は、欧州本土を大きく超えた
文字通りの地球規模で展開され、中東のパワーバランスのみならず、遠く極東においても織豊政権や江戸幕府の外交政策に大きな影響を与えた。
注7.長年イラン高原北東部ホラサーン地方等の支配を巡って抗争を繰り広げてきた両者の憎悪は強く、1510年メルブ近郊の戦いでウズベク族のムハンマド・シャイバーニー・ハーンを討ち取ったサファビー朝のイスマーイール一世は、その頭蓋骨を酒盃とするほどであった。
注8.なお、サファビー朝のムガル朝に対する支援はこれが初めてではなく、ムガル朝初代のバーブルが中央アジアでの勢力回復を図っていた頃からサファビー朝はこれを支援してきた。ただし、彼の中央アジア回復の夢は敵対するウズベク族の精強さによって阻まれてしまう。結果、中央アジアに居場所を失ったバーブルが新たな進出先として目をつけたのが北インドの地であった。

参考文献
・永田雄三 羽田正 「世界の歴史15 成熟のイスラーム世界」 1998年1月 中央公論新社
・佐藤次高 「世界の歴史8 イスラーム世界の興隆」 1997年9月 中央公論新社
・那谷敏郎 「三日月の世紀 -「大航海時代」のトルコ、イラン、インド-」 1990年5月 新潮社
・本田實信 「≪ビジュアル版≫世界の歴史6 イスラム世界の発展」 1985年3月 講談社

<当ブログ関連段>
・第三百九十一段 「近い外国」が「緑の津波」に呑み込まれる日