2011年10月30日日曜日

第四百二十一段 楔

約1709.8万平方kmというヨーロッパ東部から始まってベーリング海峡に至る世界最大の領土、そしてキリスト教東方正教会を信じるスラブ人を主体としつつもイスラム教やチベット仏教、シャーマン信仰を奉じる様々な民族をも含んだ約1.4憶の人口、現在の我々が知るロシア連邦の基本的なデータである。

この現在の我々が知る広大な領土と多種多様な民族・宗教からなる人口構成というロシアの特徴が形成されるきっかけこそ、16世紀、時のモスクワ大公国君主イヴァン4世(世間的には「雷帝」で有名)によるカザン、アストラハンというヴォルガ川中下流域の二都市の征服であった。
当時、チンギス・ハンの子孫を君主に頂くイスラム教国(注1)の都となっていた両都市をイヴァン4世が攻略したことは、モスクワ大公国に現在のロシア連邦へと繋がる3つの巨大な贈り物をもたらしたのである。

1つはモスクワ大公国(ロシア)の性格の変容である。というのも、イヴァン4世によるカザン、アストラハン両都市の征服は、それまではキリスト教東方正教会を奉じるスラブ人住民(その多くが農民)を治めるに過ぎなかったモスクワ大公国を、その内部にイスラム教徒や遊牧民といった宗教も文化も全く異なる人々をも抱え込んだ多民族帝国へと変貌させる契機となったからである。そして、ここから始まる「多民族国家」としてのロシアの性格が、その正負を含めてロマノフ朝、旧ソ連を経て現在のロシア連邦にも連綿と引き継がれていることは言うまでもないだろう。

2つ目は経済的利益である。かつてモンゴル帝国の時代にイタリア商人ペゴロッティが「日中であろうと夜間であろうと、道中は絶対に安全である」と紹介した黒海港湾都市から草原を経て中国に至る交易ルートは既にその後の政治的混乱の中で寸断されてしまったものの、それでもなおカザン、アストラハンの両都市は黒海や東欧・北欧と中央アジア、インドを結ぶ交易ルートの要として諸国の商人達が集積する商業センターとして繁栄していた。イヴァン4世率いるモスクワ大公国がその両都市を手に入れたことは彼らの経済的基盤の一層の強化を意味し、それは更なる東方拡大を推し進める上での原資ともなった。

3つ目は安全保障である。イヴァン4世の時代のキプチャク草原は、西にオスマン帝国と結ぶクリミア・ハン国があり(注2)、東にはウズベク族を筆頭とした大小様々の遊牧勢力が割拠する状況下にあった。
彼らは貿易の利権等を巡って相互に対立する一方、時には手を結んでモスクワ大公国に侵攻をかけていた(時には、彼らの侵攻によってモスクワが灰燼に帰したこともあった)のだが、イヴァン4世によるカザン、アストラハン制圧は、そんなキプチャク草原東西勢力間の連携を断ち切ることとなった(注3)。ロシア系米国人にしてロシア史の泰斗であるジョージ・ベナルドスキー氏は極めて明解な言葉遣いによって次のように述べている。
地政学の見地から、イヴァン4世がヴォルガ川を下ってアストラハーンへ急進し、ヴォルガ川流域を制圧したことは重要な意味がある。というのは、彼の行動はステップ地帯を二分し、それぞれ両者を別々に管理することが可能となったからである。


斯くの如き、東欧のその東の最果てで割拠するに過ぎなかった一公国が、東のバルハシ湖沿岸から西はドナウ川河口部に至る広大なキプチャク大草原を東西に分割する強固な楔を打ち込み、それによって巨大な帝国へと成長する端緒を掴み取った前例を念頭に置いて当代を見る時、ある巨大な構図が個人的に思い浮かぶ。

即ちそれは、インド洋と西太平洋からなる大海原(そこは世界経済の大動脈でもある)とその脆く不安定な両大洋の結節点、そしてその結節点に巨龍が楔を打ち込まんとしている構図である。

注釈
注1.モンゴル帝国の始祖として名高いチンギス・ハンは、長子のジョチに中央アジア北部の経営を任せた。爾来、彼の家系はキプチャク草原から更にロシア・東欧方面へのモンゴル帝国の拡大を先導する役割を担い、やがてヴォルガ川中下流域の都市サライ一帯を中心とするジョチ・ウルス(一般には支配下に置いた草原の名に因んで「キプチャク・ハン国」という名称で知られる)を形成する。ジョチ・ウルスは14世紀に10代目当主ウズベクの下でイスラム教国化が進むと共に、政治的経済的繁栄期を迎える。その後は中央宗家の衰え等によって各地域で一族が割拠する分裂状態となるが、そのうち、クリミアに拠ったのがクリミア・ハン国、カザンに拠ったのがカザン・ハン国、アストラハンに拠ったのがアストラハン・ハン国である。
注2.クリミア・ハン国は、1475年に王位を巡る内紛もあってオスマン帝国君主メフメト二世(一般にはコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした人物として有名)の庇護下に入る。ただし、このオスマン帝国への服属はかなり名目的なもので、その後もクリミア・ハン国はリトアニア王国やモスクワ大公国、そしてジョチ・ウルス宗家等との間で独自に外交や戦争を繰り広げ、1502年にはサライを壊滅させてジュチ・ウルス宗家に引導を渡している。なおオスマン帝国君主の中でも「大帝」として有名なスレイマン一世の母はクリミア・ハン国王家(ギレイ家という)の王女であり、つまりは母方を通じてチンギス・ハンの血を引いている。
注3.スレイマン一世の息子セリム2世(「大酒呑み」「酔っ払い」という芳しくない渾名が伝わる。なお彼の母はウクライナ出身のスラブ人である)の時代に大宰相として政治の実権を握ったソコルル・パシャ(ボスニア出身)は、モスクワ大公国のカザン、アストラハン制圧が有する戦略的意義を理解し、アストラハン遠征を行う他、ヴォルガ・ドン運河開削による中央アジアのイスラム教徒遊牧民への軍需物資輸送拡大を図ったがいずれも失敗した。


参考文献
・W・E・D・アレン 「16世紀世界史におけるトルコ勢力の諸問題」 2011年8月 あるむ 尾高晋己訳
・山内昌之 「ラディカル・ヒストリー ―ロシア史とイスラム史のフロンティア」 1991年1月 中央公論新社
・田中英道 田中俊子 「ペゴロッティ『商業指南』・訳と註釈」 1984年3月 「イタリア学会誌」33所収
・濱本真実 「イスラームを知る5 共生のイスラーム ―ロシアの正教徒とムスリム」 2011年7月

2011年10月28日金曜日

第四百二十段 とある冷戦厨のボヤキ

情報の自由化が東欧革命を招き、それが更にソ連崩壊の一要因となったことは、巷間よく言われる。

結果、欧州は平和となった。EUは長らくソ連の勢力圏であった東欧やバルト海東岸にまで拡大し、西欧主要国は防衛予算を削減し続けた。そして、そんな現状に降って湧いた「ギリシャ危機」問題もまた、現状では「欧州の平和」を強く感じさせるものとなっている。
というのも、当該危機における西欧主要国の政治家、メディアの焦点は経済的若しくは金融的事象にのみ向けられているからである。
もしソ連(或いはそれに代わる膨張主義的な軍事的脅威)が現存していたならば、歴史的にギリシャがバルカン半島と中東、そしてアドリア海を通じて南欧との結節点に当たること(注1)、ギリシャに属するクレタ島が黒海と東地中海、更にはシナイ半島(スエズ運河)を通じて紅海に睨みを利かせるには絶好の位置にあること(注2)、故に1947年、時の米国大統領トルーマンがギリシャ(並びに隣接するトルコ)がソ連の手に落ちることを防ぐために「トルーマン・ドクトリン」を発表した、という地政学的若しくは歴史的なポイントが話題の俎上に上がり、かつそれがEU諸国の対ギリシャ支援の正当性をより強めたであろうことは想像に難くない。だが、現実に繰り広げられている「ギリシャ危機」に関する議論・展開は全くそうではない。
つまり、「ギリシャ危機」について、安全保障的な観点が一切顧みられることはなく、金勘定の話のみにスポットライトが当たっている現状こそ、重大かつ切迫した脅威の存在を欠いた「泰平の欧州」をこれ以上ない雄弁さで語る証人なのである。

一方、これと対照的なのが、ユーラシア極東部(概ねASEAN+3地域)である。そこでは、ソ連を「共通の敵」とした日米中蜜月が崩壊し、各国(日本除く)においては市場経済の導入・拡大による急速な経済成長を背景とした軍事力の近代化が続いている。
その上、各国において今まで長らく政権の強い統制下にあった報道の自由化が徐々に進む過程で、

A国において、ある事件をきっかけとして反B国感情が炎上

B国マスコミがそれを自国内に報道

B国内でA国に対する反感が高まる

A国マスコミがそれを自国内に報道

更にA国内の反B国感情が悪化

それをB国マスコミが自国内に報道

(以下略)

という一種のマッチ・ポンプ現象が発生し、経済的な結びつきの強化とは裏腹に、各国民の排外的なナショナリズムをより昂進させる結果を招いている。これと政治の自由化・民主化進行によって各国政府が従来よりも世論受け・大衆受けを気にしなければならなくなったこと、そしてかつて各国政府に自重を強いてきた「相手国と下手に対立すればソ連につけ込まれる」という恐怖感の完全消滅等が相俟って、ユーラシア極東部は各国間の極端化硬直化した対外政策の応酬が繰り広げられ易い環境となってしまっている(注3)。
ぶっちゃけた話、極東は、ソ連が消滅して情報の流れの自由化が進行している現在の方が、ソ連が存在して情報の流れも各国政府の強い統制下にあった冷戦期より、各国の対立が炎上・爆発し易い物騒な状態となっているのだ。

「ある者にとっての朗報は、他の者にとっての訃報」というのがこの世の理ではあるが、それにしてもあまりに対照的な極西と極東の有り様である(注4)。

ほんと、冷戦の頃はよかった・・・・・(少なくとも、鉄のカーテン・竹のカーテンの外側にいて、かつ、極東に住まう人間にとっては)

注釈
注1.なおバルカン半島がかつて「欧州の火薬庫」と呼ばれ、最近も旧ユーゴ紛争という形で火を噴き、現在も、政治的経済的権益の配分を巡って、域内諸国の中では
民族・宗教間の対立が燻っていること、そして中東が現在進行形で「世界の火薬庫」たることはよく知られている通りである。
注2.この辺り、欧州、中東、北アフリカに勢力を拡大したビザンツ帝国やオスマン帝国の例も想起されたい。
注3.端的な例を挙げれば、2000年代に入ってから頻発する中国の反日デモとそれを報道で知った日本国民の対中感情の悪化が挙げられよう。
注4.面白いのが、冷戦崩壊後の世界におけるアメリカ合衆国の立ち位置である。というのも、大西洋岸に位置するウォール・ストリートが冷戦崩壊とそれに伴う市場経済の全世界への拡大によって多大な恩恵を享受した一方、ハワイやグアムといった太平洋側の拠点においては、対中関係の複雑化及び極東情勢の緊張増という形で冷戦崩壊のしっぺ返しを食らうことになったからである。

2011年10月16日日曜日

第四百十七段 NY等での「反格差」デモ

最近、NY等で起こっている「反格差」デモなるものの本質って、要はこういうことでしょ?

私は平等を求める情熱に敬意を払うことができません。私には、それは、妬みを理想化したものに過ぎないように思えるのです。
―オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア―

世界の富の不平等な配分を後進国は嘆く。世界人口の四分の一が世界の富の四分の三を保有していると。富がどのようにつくり出されたかについては何も言わない。富の蓄積を可能にする苦労や汗、自己否定については沈黙しているのだ。
-エリック・ホッファー-

ま、他人のことをとやかく言ってる場合じゃないな、勉強勉強・・・・

参考資料
・E・H・カー 「ナポレオンからスターリンへ―現代史エッセイ集」 1984年10月 岩波書店
・エリック・ホッファー 「安息日の前に」 2004年7月 作品社

2011年10月15日土曜日

第四百十六段 戦争が起きる時

なぜなら共和制の国家に対して他国が攻略を仕掛けてくる原因は、二つあるからだ。
一つは、征服して支配者になりたいという欲望であり、もう一つは、征服されて支配下に置かれるかもしれないという不安である。
―ニッコロ・マキャヴェッリ「政略論」―


戦争が起こる要因、それ自体は国内的な要因から国外的な要因まで非常に多岐にわたるので一概には言えないが、少なくとも戦争勃発の直接のトリガーは、ある国の指導部の「やるなら今しかない」という判断である。

では、国家の指導部が「戦争をやるなら今しかない」と決断(或いは誤断)するのはどんな時なのだろうか?

それは二つのケースが考えられる。

一つは、自国と相手国(ありていに言えば仮想敵国)との軍事バランスが、将来的にどんどんと相手国優位に傾いていくと予想される場合である。これはかつて大日本帝国が対米開戦を決断した場合に当てはまろう。後世の我々からすると「何故に巨大な経済力格差があるというのに、大日本帝国政府は米国に喧嘩を売ることにしたのか?」と疑問を抱いてしまうような決断だが、時の大日本帝国上層部とて馬鹿ではなく、当然大日本帝国と米国との間にある経済力等の差はある程度認識はしていた。
寧ろ認識していたからこそ、その経済力の差が石油禁輸措置やワシントン条約といった軍備管理条約と相俟って日米間軍事バランスを逆転不能な程の米国優位で確定してしまう将来を予測し、「やるなら、(日米の軍事力格差が小さい)今しかない」と決断して、1941年、真珠湾に攻撃部隊を派遣することになったのである。

二つ目は、自国と相手国との軍事力が、一方的に自国優位な場合である。相手国との利害の衝突は基本的に外交交渉で決着されるのが望ましいし、多くの場合はこれで折り合いが付けられるものであるのだが、如何せん外交交渉は時間がかかってしまう上に、結果が出るまでの過程を秘密にせねばならないことも多く、移り気な世論受け若しくは部外者受けは全くしない解決法でもあったりする。そこで彼我の軍事バランスが一方的に自国優位であったりすると、「ごちゃごちゃとまどろっこしい交渉をするよりも、鉄拳で一発ガツンと喰らわせてこちらの主張を呑ませよう」という意見が大手を振るうことになり易い。
典型的な例がこれまた大日本帝国の決断である。ただし、こちらは米国ではなく、蒋介石がトップを務める中国国民党政府に対するもの。1930年代、大日本帝国政府と中国国民党政府は通商問題、マンチリュアの支配権、中国各地で高まるナショナリズムの大波と駐中日本人の安全確保といった多くの対立点を抱えていた。これに対して日中両政府は活発な交渉を繰り広げて問題の解決を図るのだが、なかなか上手く折り合いをつけることができず、双方に不満が鬱積していった。
そしてこの時の日中を比較すると大日本帝国は極東における最大の軍事パワーであり、一方の中国国民党政府は装備や兵士の練度で大日本帝国に劣るのは勿論、国民党内の権力闘争に加えて各地に軍閥が割拠しており、統一国家としての内実も乏しい状態にあった。こうした日中間の軍事バランスの偏りが時間も手間もかかる外交交渉への疑念と相俟って、大日本帝国政府をして「やるなら、(中国があまりにも弱すぎる)今しかない」と決断せしめ、幾多の「事変」を経ての日中戦争開戦とあいなるのである。

要は、彼我の軍事バランスが相手国優位か自国優位、どちらか一方に極端に振れた時に戦争は起こり易いという話。弱過ぎるのも強過ぎるのも等しく戦禍を招きかねないという、安全保障の世界は実に面妖なもの・・・・。

参考資料
・塩野七生 「マキアヴェッリ語録」 1992年11月 新潮社

2011年10月14日金曜日

第四百十五段 ネオコンとフランス王国のコントラスト

直接攻撃を受けた米国のみならず、通信・放送網の及ぶ世界全体に大きな衝撃を与えた911テロから約10年の月日が経過した。
この衝撃的な事件を受け、元来「人権」「民主主義」「自由」といった”普遍的”価値観の世界への伝道を重視する傾向のあった米国外交に旋風を巻き起こしたのが、「ネオコン」と呼ばれるグループである。彼らは「人権」「民主主義」「自由」といった普遍的価値観を軍事力等で世界に強制的に広めていき、以て米国の安全を確保しようという考えを打ち出した(注1)(注2)。
彼らはアフガニスタンで米軍が世界に見せつけた圧倒的なハイテク軍事能力を背景に、WMDの脅威と「中東民主化」を旗印として中東の産油国イラクに君臨する独裁者サダム・フセインの打倒に乗り出した。そして政権の打倒には成功したものの、同時にサダム・フセインの剛腕によって押さえこまれていた宗派・民族対立をもまた大解放してしまい、多額の出費と膨大な流血の泥沼にはまり込む愚を犯してしまった(注3)。

このネオコン・グループの大言壮語めいた構想とその無惨な帰結を見ると、どうしても思い浮かんできてしまうのが、16~17世紀フランス王国の巧みな外交術である。

ヴァロワ朝フランス王国の王フランソワ一世(在位1515~1547年)は、自身を含めた王家が代々奉じてきたカトリック信仰云々よりも、そのカトリックの大義を掲げてヨーロッパ支配を目論むハプスブルク帝国の脅威を重視し(注4)、それを牽制・撃退するため、自身と同じくハプスブルク家と利害の対立していたイスラム教勢力のオスマン帝国やドイツのプロテスタント諸侯を支援した(注5)(注6)。
そのフランソワ一世の時代から約80年後、時のブルボン朝フランス王国宰相たるリシュリューは、自身が教皇庁の枢機卿であるにも関わらず、ハプスブルク帝国との戦いに勝ち抜くため、以前から続いていたオスマン帝国との良好な関係を維持すると共に、三十年戦争ではプロテスタント派のドイツ諸侯やスウェーデン王国を支援し、最終的にはフランスをプロテスタント側として参戦させたのである。こうした彼の努力は十分に報われた。というのも、ウェストファリア条約の軛(注7)と戦地となったドイツの荒廃(注8)は、ハプスブルク帝国による欧州支配を事実上不可能としたからである(もっとも、リシュリュー自身は1642年に没し、この成功を知ることはなかった)。
この、「カトリック」というイデオロギーに縛られずに展開された、冷静に自国の利益を見据えた現実主義外交が、後年、「朕は国家なり」とうそぶき太陽王とも呼ばれたルイ十四世治下の強大なフランスを生み出す一因となったのだ。

一方、中東欧やネーデルラント、イベリア・イタリア両半島、そして新大陸やアジアに及ぶ広大な領土(注9)を「カトリックの守護者」という旗印で統合しようとしたハプスブルク帝国は、故に数多くの介入戦争、各地域の反乱や軋轢に巻き込まれ、多大の出費・流血を強いられる羽目となり、ゆっくりとしかし着実に欧州最強の地位から滑り落ちていき、遂に三十年戦争とその戦後処理たるウェストファリア条約で、欧州統一の悲願を粉砕されてしまった。

この対照的なフランス王国とハプスブルク帝国の有り様を頭に入れた上で、
自らの信条と、無比の軍事力と経済力に支えられた米国は、自国の安全を確保し、同時に世界中に自由の大義を広めるのだ―まずバグダッドで、そしてバグダッドを踏み越えた彼方へ

と息巻いたネオコンの理想とその巨大な墓標たるイラクに改めて目を注ぐと、自分は甚だしく戸惑ってしまうのである。「果たして21世紀の人間は、それ以前の世紀を生きた人間と比較してどの程度賢くなったのか?」と。


注釈
注1.彼らネオコンが軍事力を行使してでも全世界に広めようとした「人権」「民主主義」「自由」といった「普遍的価値観」だが、それが「普遍的」と言いつつも、歴史的には主としてオーデル以西、ピレネー以北という極めて限定された西欧世界(後に北米もそこに加わる)でしか発生・成長し得なかった「特殊」な価値観であったこと、そしてそれが中東やアフリカ、アジアといった他地域にも広まった背景には、理念としての魅力よりも、それらを奉じていた欧州列強の軍事的経済的富強さに他地域の政府が魅了されたからという面が大きかったことには注意が必要であろう。
注2.所謂「ネオコン」と呼ばれるグループが、
「人権」「民主主義」「自由」の伝道のためには軍事力行使も辞さない一種の武断主義を主張した背景には、彼らの少なくない人物がユダヤ系であり、かつて、その彼らの親戚・縁者がナチス・ドイツによって虐殺され続けた間、世界の主要国がこれを傍観し続けたことへの衝撃があったとも言われる。
注3.対イラク開戦を巡ってネオコン・グループ等と対立し、結局ブッシュ(息子)政権から逐われることになったのが湾岸戦争(1991年)の英雄にして国務長官(当時)を務めていたコリン・パウエル氏である。氏は「サダムが失脚すれば、きっとジェファソン主義者が後継者となるだろうとか、砂漠の民主主義国家が建設されて、人民がコーランと共に連邦主義の論文を読むようになるだろうなどと考えるのは、甘いと言わざるを得ない。結局は、名前の違う別のサダムが登場するだけである」と、統合参謀本部議長退任後に著した回顧録(1995年版 日本語版はハードカバーが1996年、文庫が2001年)で喝破していた。逐った方と逐われた方、今から考えると先見の明がどちらにあったかは明々白々である。
注4.フランソワ一世がフランス王位にあった時代、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝カール五世の下、オーストリアやボヘミア、ハンガリー、南イタリアやネーデルラント、スペインやその新大陸における植民地という広大な領域を支配下に置いていた。そしてカール五世の引退後も、オーストリアやボヘミア、ハンガリーは彼の弟に、スペインやその新大陸における植民地、南イタリアやネーデルラントは彼の長子にそれぞれ継承され、ハプスブルク家は依然として欧州最大の政治勢力として君臨し続けた。
注5.なおフランソワ一世の言として「ヨーロッパの勢力均衡を維持しうる唯一の国としてオスマン帝国を見なしている」という言葉が遺っている。

注6.こうしたイデオロギーを無視した実利外交を成功させるには、自身が現実主義者であるのみならず、相手もまた等しく現実的である必要がある。この点でフランソワ一世は幸運であった。というのも時のオスマン帝国皇帝スレイマン一世(在位1520~1566年)もまた、「カトリックに対抗するプロテスタントを支持・保護することはオスマン帝国の対欧州政策の要石となろう。したがってオスマン帝国の対ヨーロッパ政策は欧州における政治的不統一を維持し、ハプスブルク帝国を弱体化し、欧州諸国から成る反オスマン十字軍を結成させないことである」という言を遺すほどには事情通で現実主義者だったからである。
注7.当該条約によって、ドイツの各諸侯はプロテスタント派、カトリック派関係なく主権と外交権を認められ、またフランスはアルザス及びロレーヌ地方を新たな領土として獲得した。一方、ハプスブルク側はドイツ諸侯への支配力を完全に失うと同時に、法律の制定、戦争、講和、同盟などについてドイツ諸侯を構成メンバーとする帝国議会の承認が義務付けられることとなった。
注8.三十年戦争において主要な戦地となったドイツでは、地域によって異同はあるものの、概ね人口の3分の1が失われたとされる。
注9.現在東南アジアに存在するフィリピンという国の名は、16世紀にそこを植民地化したスペイン王フェリペ2世(カール5世の長子)に由来する。


参考資料
・W・E・D・アレン 「16世紀世界史におけるトルコ勢力の諸問題」 2011年8月 あるむ 尾高晋己訳
・コリンパウエル 「マイ・アメリカン・ジャーニー 統合参謀本部議長時代編」 2001年3月 角川書店
・ヘンリー・キッシンジャー 「外交」上巻 1996年6月 日本経済新聞社 岡崎久彦監訳
・ローレンス・カプラン ウィリアム・クリストル 「ネオコンの真実 -イラク戦争から世界制覇へ」 2003年6月 ポプラ社 岡本豊訳
・手嶋龍一 「ライオンと蜘蛛の巣」 2006年11月 幻冬舎

2011年10月13日木曜日

第四百十四段 イランの「冒険」を可能たらしめているもの

最近、イランの活発な対外政策が続いている。例えば、イラン革命後としては初となるイラン海軍艦艇の紅海・スエズ運河を経由したシリア訪問、同国海軍司令官によるイラン海軍の展開地域を「従来のペルシャ湾・オマーン近海を超えた範囲まで拡大させる」旨の発言や米国近海への海軍艦艇派遣発言(注1)、イラン海軍潜水艦及び水上艦の紅海派遣、そして衝撃的なのが最近報じられた「イラン政府によるサウジ駐米大使暗殺計画」の発覚である。

では最近、何故イランはこうした積極的な若しくは冒険的な対外政策に乗り出しているのだろう?
そこには内政面も含めた様々な理由があろうが、少なくともその一因は地図を見ることで自然と浮かんでこよう。


イランを中心として地図を見た場合、まず北を見れば、コーカサスや中央アジアの諸国は勿論、それらに依然として強い影響力を有するロシアとの関係が良好である。
東を見れば、アフガンで政権を握っているカルザイ政権は以前よりイランが支援を行ってきた北部同盟を母胎としたものであるし、そのカルザイ政権と激しく対立するアフガン・タリバンについてもアフガンに駐留する米軍を共通の敵とした協力関係が成立していると言われている(注2)。またパキスタンともIPパイプラインの敷設等、経済やエネルギー面を中心に関係を強めている。
西を見れば、2003年のイラク戦争で長年の九敵であったイラクのサダム・フセイン政権が崩壊し(注3)、イランと宗派を同じくするイスラム教シーア派住民を中心とする政権が成立し(注4)、トルコとはエネルギーや経済、クルド人独立派対策といった分野での協力関係を深め(注5)、これまた良好な関係の構築に成功している。

要するにイランの現状は、四方東西南北のうち、東西北の憂いが除去された(控え目に言えば低減された)状態にあると言える。となれば、残る一方の南、即ちペルシャ湾やアラビア半島、そしてアデン湾や紅海を対象とした冒険に乗り出す余裕が出てくるのも宜なるかなというもの。つまり、地政学的な”後顧の憂い”の不在がイランの積極的、冒険的対外政策を後押ししていると考えられる。

イラン政府がどこまで意識的にこうした戦略的環境の構築に動いたのかは不明だが、少なくとも「相手に喧嘩を売るなら(挑発をかけるなら)、まず後顧の憂いを絶ってから」という姿勢は、是非とも見習いたいものである。


注釈
注1.なおイランの「米近海への海軍艦艇派遣」発言に対し、米国側は「大言壮語の類」として静観の構えを示している。
注2.イランとアフガン・タリバンの共闘関係は今までにも度々指摘されてきた。両者とも米軍を目下最大の敵としていることでは共通しており、あっても不思議な話では全くないが、両者の協力関係がどの程度強いものなのかについては諸説あってはっきりしない。
注3.イランにとってイラン・イラク戦争(1980年~1988年)以来の仇敵であったサダム政権を葬ったのが、これまたイラン革命(1979年)以来の敵対者である米国であり、しかもその米国がサダム政権崩壊後のイラクで多大な出費と流血を強いられる羽目に陥ったことは、これ以上ない僥倖であったと推測される。
注4.お互いの宗教・宗派が同じだからと言って必ずしも二国間関係が良好に保たれるわけではないが、イラン政府にとっては、少なくとも前注で触れたような因縁を持つサダム政権よりも現イラク政権の方が遥かに与し易い相手ではあろう

注5.なおイランは今年中頃からクルド人独立派組織PJAK(トルコ領でのクルド人独立武装闘争を行っているPKKの傘下組織とされる)への掃討を強めて多数の幹部を殺害・捕縛し、2011年9月30日にはイラン革命防衛隊陸軍副司令官が「PJAKはイラン政府に降伏した」旨の発表を行っている。

参考資料
・CNN.co.jp 「イラン、米国近海へ戦闘艦船の派遣発表 「大言」と国防総省」 2011年9月29日
・Gulf Times 「China likely to get gas pipeline contract」 2011年8月2日
・Gulf Times 「Iran, Russia sign MoU on transport links」 2011年8月7日
・IRIB 「イラン海軍、大西洋への艦船派遣を計画」 2011年7月18日
・IRIB 「イラン革命防衛隊の司令官が、PJAK掃討作戦で殉教」 2011年7月23日
・IRIB 「イラン、トルコ、イラクが国際銀行の設立で合意」 2011年7月29日
・IRIB 「イランの電力輸出、昨年より25%増加」 2011年8月30日
・IRIB 「イラン革命防衛隊、「PJAKは降伏した」」 2011年9月30日」
・naval-technology.com 「Iranian Navy to Expand Operational Zone」 2011年3月15日
・naval-technology.com 「Iranian Navy vessels to patrol Red Sea」 2011年9月1日
・News.Az 「Iran to build new road to Nakhchivan」 2011年9月16日
・News.Az 「Iran to deploy vessels near US waters」 2011年9月27日
・Radio Free Europe Radio Liberty 「Iran Asks Russia About Building More Reactors」 2011年9月24日
・Today's Zaman 「 Senior PJAK leader killed, Iran says」 2011年9月7日
・TOLOnews 「Iranian Defence Minister Visits Afghanistan」 2011年6月19日
・TOLOnews 「Iran, Pakistan Support the Taliban: Afghan Official」 2011年7月15日
・共同通信 「イラン組織がサウジ大使暗殺計画 米長官「背後に政府の指示」」 2011年10月12日
・新華社 「伊朗军舰通过苏伊士运河」 2011年2月22日

2011年10月2日日曜日

第四百十三段 ミャンマー、戦略的重心の移動?

東西を見れば東南アジアと南アジアの接点、南北を見ればベンガル湾(インド洋)と中国雲南の接点、そんな地理的要衝とも言えるミャンマーという国は、「人権」「民主化」といった問題で西側諸国と長らく対立し、その反射的行動として、自国と利害が一致する相手ならばその政治体制如何を問わず支援の手を差し伸べる中国に接近するという外交スタンスを採ってきた。
その結果、ミャンマー政府は西側諸国の制裁に対抗若しくはそれを無力化するための格好の後援者を獲得したことによって安定の度を増し、一方の中国は支援の代価として、ミャンマー領ココ諸島(インド洋)に通信傍受・レーダー施設を設置、ミャンマー国内全発電所(建設中のもの含む)の6割の建設・運営に中国企業が参加(注1)、ベンガル湾に面したチャウッピューと雲南省昆明を結ぶ石油・ガス・パイプラインの敷設(現在工事進行中)といった具合に大きなプレゼンスを築くことに成功した。
こうした事情によって、「中国-ミャンマー関係=蜜月状態」という図式が広く国際社会に長らく流布することとなった(注2)。

だが最近、ミャンマーの戦略的重心の置き所に変化を感じさせる報道が続いている。

1.日本とのレアアース共同開発(以下の引用は共同通信2011年9月26日より)(因みに、2000年代に入ってから尖閣諸島や東シナ海の支配・権益を巡る日中間の対立がとみに激化しつつあることは贅言を要しないであろう)。
 政府はミャンマーとレアアース(希土類)を含む天然鉱物資源を共同開発する方針を固めた。計画具体化のため、ミャンマーのワナ・マウン・ルウィン外相に年内にも訪日するよう非公式に打診している。昨年、中国漁船衝突事件後に中国のレアアース輸出手続きが停滞したことを教訓に、複数の安定供給ルートを確保する必要があると判断した。関係筋が25日、明らかにした。

 今年3月にミャンマーが軍事政権から形式的ながら民政移管を果たしたことも踏まえたが、民主化が十分でない段階で、本格的な経済関係強化への取り組みは時期尚早との意見も出そうだ

2.中国からの支援を受けて進めていたイラワジ川上流でのミッソン・ダム(注3)建設中止(以下の引用はAFPBBNews 2011年10月1日より)。
ミャンマーのテイン・セイン(Thein Sein)大統領は9月30日、中国の支援を受けている総工費36億ドル(約2770億円)の巨大ダム計画について、ミャンマーでは珍しい世論の反対に応えて、建設の中止を命じた。

 ミャンマーでは、実質は旧軍事政権の支援を受けながら名目上は民政に移行し、新政権が発足したが、北部カチン(Kachin)州のイラワジ(Irrawaddy)川流域に計画されていたミッソン・ダム(Myitsone Dam)に対して高まっていた。反対は、民主活動家や環境運動家らにとって新たな自由の試金石となった。
 
 政府高官によると、テイン・セイン大統領は首都ネピドー(Naypyidaw)で開かれた議会で、現政権の間はミッソン・ダムの建設を中止すると発表した。同計画は中国のエネルギー大手、中国電力投資集団(China Power Investment)の支援を受けていた。

 環境活動家らは、同ダムを建設すれば、シンガポールと同程度の面積の地域に川が氾濫し、数十の村が水没し、1万人が移住を余儀なくされるほか、世界で最も多様な生態系のひとつとされる地域が回復不可能なほどのダメージを受けてしまうと警告していた。

 民主化運動指導者のアウン・サン・スー・チー(Aung San Suu Kyi)さんも当局に計画の見直しを求めていた1人だった。


3.インドとの貿易額を2015年迄に30億ドル相当まで拡大させる意向の表明(注4)(以下の引用はEurasiaReview 2011年10月1日より)(因みに今月19日、インドとベトナムとの間で成立した南シナ海における石油・天然ガス共同開発合意に対し、中国外務省はこれに反発する声明を発表している)。
India and Burma will seek to diversify trade over the next four years as it sets a target of $US3 billion, effectively doubling current figures, in bilateral trade by 2015.

The goal was set on Tuesday following a meeting of the Joint Trade Commission, attended by Burma Commerce Minister Win Myint and his Indian counterpart, Anand Sharma.

India currently ranks as Burma’s fourth largest foreign investor but has sought to gain greater economic leverage in the country, both in an effort to weaken China’s influence there and gain stable access to the ASEAN economies.

Sharma was quoted in The Hindu as saying: “We need to work towards broad-basing our trade basket. Let us encourage businesses on both sides to utilise Duty Free Tariff Preference Scheme and ASEAN FTA channels to diversify trade.”

India has made expansion into Burma a key priority over the coming years as it looks to gain more clout among the developing Southeast Asian economies. It is also fearful that China’s continued rise will see it out-compete India on a number of fronts, including extraction of Burma’s huge wealth of natural resources.

Burma on the other hand is known to be wary of an over-dependence on China, despite the political shielding that a strong relationship with Beijing carries, and has looked to develop ties with India and Russia as a means to avoid this.

To an extent the ball appears to be in Burma’s court, at least for the time being, as Delhi makes regular overtures to Naypyidaw in an attempt to embrace the new government. When Indian foreign minister S M Krishna visited Naypyidaw in June, one of the first senior foreign officials to break ground with the new Burmese government, he offered 10 heavy-duty rice silos as a gesture of goodwill.

One major bilateral venture underway is the $US120 million Kaladan Multi-Modal Transit Project designed to link Indian ports to Burma’s western coastal town of Sittwe. Goods could then be shipped to Sittwe and on into Southeast Asia.

The Tavoy deep-sea port project in southern Burma is also being seen as a hub of connectivity between ASEAN economies, as well as China, and Indian and European trade, which hitherto has struggled for a coastal gateway to Southeast Asia.

India’s perennial competition with China was brought into sharp focus over the Shwe oil and gas pipeline project, which Delhi had originally bid for but lost out to China. The deal was thought to have been sealed after China pledged diplomatic protection in the UN Security Council, something India cannot offer.

While India’s trade with Burma last year stood at $US1.5 billion, China’s exceeded $US10 billion. Of the total Burmese exports to India, 97.5 prcent were pulses and wood products, The Hindu said, despite India’s hunger for Burmese gas and hydropower.

これら一見すると「ミャンマーの中国離れ」を示唆するようなニュースが相次いで流れてくると気になってくるのが、中国の勢力拡大、現状破壊勢力的な振舞いに神経を尖らせる日米印といった国々がこの機を捉え、長らく強固とされてきたミャンマー-中国蜜月にどれほど大きな楔を打ち込むことができるのかという点(注5)、そしてもしミャンマーの戦略的重心の移動がより鮮明化してきた時、同様に中国への政治的経済的依存が進んでいる北朝鮮にどのような影響が及ぶのかという点(注6)(注7)、以上の2点である。

注釈
注1.なお、2010年12月15日に稼働を開始したイェーユワー水力発電所(発電量790MW タービン4基設置)の建設費用7億ドルのうち、2億ドルは中国輸出入銀行からの融資で賄われている。
注2.中国ほどではないにしろ、他に政府レベルでミャンマーと良好な関係を築いている国としてインド、タイ、ロシア、北朝鮮が挙げられる。また、最近では電力供給等のインフラ整備が不十分であることを承知しつつも低廉な人件費に魅力を感じた日韓のアパレル・繊維企業が多数ミャンマーに進出している。ただし、日韓両国とも政府レベルでは「人権」「民主化」を重視する欧米諸国との関係、そしてミャンマーが北朝鮮と良好な関係にあるといった事情から、積極的にミャンマー政府との関係強化に乗り出しにくい状態が長らく続いてきた。
注3.ミッソン・ダム建設計画によれば、同ダムの発電量は6000MW(発電量750MWのタービンを8基設置)、2019年の完成を目指していた。
注4.2008年時点のデータだが、ミャンマーの輸出額は70億ドルで主要相手国シェアはタイ38.7%、シンガポール12.5%、インド11.9%、香港9.8%、中国9.1%となっており、輸入額は43億ドルで主要相手国シェア中国26.4%、シンガポール23%、タイ8.6%、マレーシア7.9%、インドネシア4.6%となっている。
注5.もし日米印といった国々が中国牽制のため、それとミャンマーの関係に楔を打ち込もうとするならば次の二つが政策を進めていく上で必要不可欠なものとなろう。1つは、「中国の勢力拡大阻止」という大事の前に「ミャンマーの民主化が不十分である」という小事には目をつぶってミャンマー政府に手を差し伸べる、謂わば「清濁併せ呑む」姿勢。もう1つは、東南アジアや東アジアに死活的な安全保障上の利益を有さないがため、対ミャンマー政策についても勢力均衡の現実より「人権」「民主化」といった原理原則に重きを置いた教条主義的アプローチを採り続けるであろうEU諸国等の押さえ込みである。
注6.北朝鮮の経済面、政治面における対中依存は今まで度々報じられているが、一方で北朝鮮は、建国以来金日成率いる自主独立派と隣国中国との協調を重視する親中派の権力闘争が度々繰り広げてきたという歴史も有していること、そして最近の北朝鮮が米韓露といった周辺諸国との対話・協調姿勢に転じていることにも注意が必要であろう。
注7.たまに「ミャンマーが核兵器開発計画を進めていて、北朝鮮がそれを支援している」という旨の報道が流れることがある。仮に事実としても不思議はない話ではあるが、現状で真偽のほどは不明である。

参考資料
・AFPBBNews 「ミャンマーが巨大ダム計画中止、同国異例の抗議に応え」 2011年10月1日
・BBC 「Burma 'trying to build nuclear weapon'」 2010年6月4日
・EurasiaReview 「India And Burma Set $3bn Trade Target」 2011年10月1日
・共同通信 「ミャンマーとレアアース共同開発 供給確保で政府方針」 2011年9月26日
・工藤年博編 「ミャンマー経済の実像 -なぜ軍政は生き残れたのか-」 2008年3月 アジア経済研究所
・国別情勢研究会 「ARCレポート ミャンマー 2011/12」 世界経済情報サービス
・時事通信 「南シナ海資源開発は「違法」=越印の合意に反発-中国」 2011年9月19日
・二宮書店編集部編 「データブック オブ・ザ・ワールド 2011 -世界各国要覧と最新統計-」 2011年1月 二宮書店

<当ブログ関連段>
・第三百五十一段 緬甸デベロップメント
・第四百十一段 マハーラージャーは北面す
・第四百六段 露朝韓ガス・パイプライン構想と日本