2011年10月14日金曜日

第四百十五段 ネオコンとフランス王国のコントラスト

直接攻撃を受けた米国のみならず、通信・放送網の及ぶ世界全体に大きな衝撃を与えた911テロから約10年の月日が経過した。
この衝撃的な事件を受け、元来「人権」「民主主義」「自由」といった”普遍的”価値観の世界への伝道を重視する傾向のあった米国外交に旋風を巻き起こしたのが、「ネオコン」と呼ばれるグループである。彼らは「人権」「民主主義」「自由」といった普遍的価値観を軍事力等で世界に強制的に広めていき、以て米国の安全を確保しようという考えを打ち出した(注1)(注2)。
彼らはアフガニスタンで米軍が世界に見せつけた圧倒的なハイテク軍事能力を背景に、WMDの脅威と「中東民主化」を旗印として中東の産油国イラクに君臨する独裁者サダム・フセインの打倒に乗り出した。そして政権の打倒には成功したものの、同時にサダム・フセインの剛腕によって押さえこまれていた宗派・民族対立をもまた大解放してしまい、多額の出費と膨大な流血の泥沼にはまり込む愚を犯してしまった(注3)。

このネオコン・グループの大言壮語めいた構想とその無惨な帰結を見ると、どうしても思い浮かんできてしまうのが、16~17世紀フランス王国の巧みな外交術である。

ヴァロワ朝フランス王国の王フランソワ一世(在位1515~1547年)は、自身を含めた王家が代々奉じてきたカトリック信仰云々よりも、そのカトリックの大義を掲げてヨーロッパ支配を目論むハプスブルク帝国の脅威を重視し(注4)、それを牽制・撃退するため、自身と同じくハプスブルク家と利害の対立していたイスラム教勢力のオスマン帝国やドイツのプロテスタント諸侯を支援した(注5)(注6)。
そのフランソワ一世の時代から約80年後、時のブルボン朝フランス王国宰相たるリシュリューは、自身が教皇庁の枢機卿であるにも関わらず、ハプスブルク帝国との戦いに勝ち抜くため、以前から続いていたオスマン帝国との良好な関係を維持すると共に、三十年戦争ではプロテスタント派のドイツ諸侯やスウェーデン王国を支援し、最終的にはフランスをプロテスタント側として参戦させたのである。こうした彼の努力は十分に報われた。というのも、ウェストファリア条約の軛(注7)と戦地となったドイツの荒廃(注8)は、ハプスブルク帝国による欧州支配を事実上不可能としたからである(もっとも、リシュリュー自身は1642年に没し、この成功を知ることはなかった)。
この、「カトリック」というイデオロギーに縛られずに展開された、冷静に自国の利益を見据えた現実主義外交が、後年、「朕は国家なり」とうそぶき太陽王とも呼ばれたルイ十四世治下の強大なフランスを生み出す一因となったのだ。

一方、中東欧やネーデルラント、イベリア・イタリア両半島、そして新大陸やアジアに及ぶ広大な領土(注9)を「カトリックの守護者」という旗印で統合しようとしたハプスブルク帝国は、故に数多くの介入戦争、各地域の反乱や軋轢に巻き込まれ、多大の出費・流血を強いられる羽目となり、ゆっくりとしかし着実に欧州最強の地位から滑り落ちていき、遂に三十年戦争とその戦後処理たるウェストファリア条約で、欧州統一の悲願を粉砕されてしまった。

この対照的なフランス王国とハプスブルク帝国の有り様を頭に入れた上で、
自らの信条と、無比の軍事力と経済力に支えられた米国は、自国の安全を確保し、同時に世界中に自由の大義を広めるのだ―まずバグダッドで、そしてバグダッドを踏み越えた彼方へ

と息巻いたネオコンの理想とその巨大な墓標たるイラクに改めて目を注ぐと、自分は甚だしく戸惑ってしまうのである。「果たして21世紀の人間は、それ以前の世紀を生きた人間と比較してどの程度賢くなったのか?」と。


注釈
注1.彼らネオコンが軍事力を行使してでも全世界に広めようとした「人権」「民主主義」「自由」といった「普遍的価値観」だが、それが「普遍的」と言いつつも、歴史的には主としてオーデル以西、ピレネー以北という極めて限定された西欧世界(後に北米もそこに加わる)でしか発生・成長し得なかった「特殊」な価値観であったこと、そしてそれが中東やアフリカ、アジアといった他地域にも広まった背景には、理念としての魅力よりも、それらを奉じていた欧州列強の軍事的経済的富強さに他地域の政府が魅了されたからという面が大きかったことには注意が必要であろう。
注2.所謂「ネオコン」と呼ばれるグループが、
「人権」「民主主義」「自由」の伝道のためには軍事力行使も辞さない一種の武断主義を主張した背景には、彼らの少なくない人物がユダヤ系であり、かつて、その彼らの親戚・縁者がナチス・ドイツによって虐殺され続けた間、世界の主要国がこれを傍観し続けたことへの衝撃があったとも言われる。
注3.対イラク開戦を巡ってネオコン・グループ等と対立し、結局ブッシュ(息子)政権から逐われることになったのが湾岸戦争(1991年)の英雄にして国務長官(当時)を務めていたコリン・パウエル氏である。氏は「サダムが失脚すれば、きっとジェファソン主義者が後継者となるだろうとか、砂漠の民主主義国家が建設されて、人民がコーランと共に連邦主義の論文を読むようになるだろうなどと考えるのは、甘いと言わざるを得ない。結局は、名前の違う別のサダムが登場するだけである」と、統合参謀本部議長退任後に著した回顧録(1995年版 日本語版はハードカバーが1996年、文庫が2001年)で喝破していた。逐った方と逐われた方、今から考えると先見の明がどちらにあったかは明々白々である。
注4.フランソワ一世がフランス王位にあった時代、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝カール五世の下、オーストリアやボヘミア、ハンガリー、南イタリアやネーデルラント、スペインやその新大陸における植民地という広大な領域を支配下に置いていた。そしてカール五世の引退後も、オーストリアやボヘミア、ハンガリーは彼の弟に、スペインやその新大陸における植民地、南イタリアやネーデルラントは彼の長子にそれぞれ継承され、ハプスブルク家は依然として欧州最大の政治勢力として君臨し続けた。
注5.なおフランソワ一世の言として「ヨーロッパの勢力均衡を維持しうる唯一の国としてオスマン帝国を見なしている」という言葉が遺っている。

注6.こうしたイデオロギーを無視した実利外交を成功させるには、自身が現実主義者であるのみならず、相手もまた等しく現実的である必要がある。この点でフランソワ一世は幸運であった。というのも時のオスマン帝国皇帝スレイマン一世(在位1520~1566年)もまた、「カトリックに対抗するプロテスタントを支持・保護することはオスマン帝国の対欧州政策の要石となろう。したがってオスマン帝国の対ヨーロッパ政策は欧州における政治的不統一を維持し、ハプスブルク帝国を弱体化し、欧州諸国から成る反オスマン十字軍を結成させないことである」という言を遺すほどには事情通で現実主義者だったからである。
注7.当該条約によって、ドイツの各諸侯はプロテスタント派、カトリック派関係なく主権と外交権を認められ、またフランスはアルザス及びロレーヌ地方を新たな領土として獲得した。一方、ハプスブルク側はドイツ諸侯への支配力を完全に失うと同時に、法律の制定、戦争、講和、同盟などについてドイツ諸侯を構成メンバーとする帝国議会の承認が義務付けられることとなった。
注8.三十年戦争において主要な戦地となったドイツでは、地域によって異同はあるものの、概ね人口の3分の1が失われたとされる。
注9.現在東南アジアに存在するフィリピンという国の名は、16世紀にそこを植民地化したスペイン王フェリペ2世(カール5世の長子)に由来する。


参考資料
・W・E・D・アレン 「16世紀世界史におけるトルコ勢力の諸問題」 2011年8月 あるむ 尾高晋己訳
・コリンパウエル 「マイ・アメリカン・ジャーニー 統合参謀本部議長時代編」 2001年3月 角川書店
・ヘンリー・キッシンジャー 「外交」上巻 1996年6月 日本経済新聞社 岡崎久彦監訳
・ローレンス・カプラン ウィリアム・クリストル 「ネオコンの真実 -イラク戦争から世界制覇へ」 2003年6月 ポプラ社 岡本豊訳
・手嶋龍一 「ライオンと蜘蛛の巣」 2006年11月 幻冬舎