2011年10月30日日曜日

第四百二十一段 楔

約1709.8万平方kmというヨーロッパ東部から始まってベーリング海峡に至る世界最大の領土、そしてキリスト教東方正教会を信じるスラブ人を主体としつつもイスラム教やチベット仏教、シャーマン信仰を奉じる様々な民族をも含んだ約1.4憶の人口、現在の我々が知るロシア連邦の基本的なデータである。

この現在の我々が知る広大な領土と多種多様な民族・宗教からなる人口構成というロシアの特徴が形成されるきっかけこそ、16世紀、時のモスクワ大公国君主イヴァン4世(世間的には「雷帝」で有名)によるカザン、アストラハンというヴォルガ川中下流域の二都市の征服であった。
当時、チンギス・ハンの子孫を君主に頂くイスラム教国(注1)の都となっていた両都市をイヴァン4世が攻略したことは、モスクワ大公国に現在のロシア連邦へと繋がる3つの巨大な贈り物をもたらしたのである。

1つはモスクワ大公国(ロシア)の性格の変容である。というのも、イヴァン4世によるカザン、アストラハン両都市の征服は、それまではキリスト教東方正教会を奉じるスラブ人住民(その多くが農民)を治めるに過ぎなかったモスクワ大公国を、その内部にイスラム教徒や遊牧民といった宗教も文化も全く異なる人々をも抱え込んだ多民族帝国へと変貌させる契機となったからである。そして、ここから始まる「多民族国家」としてのロシアの性格が、その正負を含めてロマノフ朝、旧ソ連を経て現在のロシア連邦にも連綿と引き継がれていることは言うまでもないだろう。

2つ目は経済的利益である。かつてモンゴル帝国の時代にイタリア商人ペゴロッティが「日中であろうと夜間であろうと、道中は絶対に安全である」と紹介した黒海港湾都市から草原を経て中国に至る交易ルートは既にその後の政治的混乱の中で寸断されてしまったものの、それでもなおカザン、アストラハンの両都市は黒海や東欧・北欧と中央アジア、インドを結ぶ交易ルートの要として諸国の商人達が集積する商業センターとして繁栄していた。イヴァン4世率いるモスクワ大公国がその両都市を手に入れたことは彼らの経済的基盤の一層の強化を意味し、それは更なる東方拡大を推し進める上での原資ともなった。

3つ目は安全保障である。イヴァン4世の時代のキプチャク草原は、西にオスマン帝国と結ぶクリミア・ハン国があり(注2)、東にはウズベク族を筆頭とした大小様々の遊牧勢力が割拠する状況下にあった。
彼らは貿易の利権等を巡って相互に対立する一方、時には手を結んでモスクワ大公国に侵攻をかけていた(時には、彼らの侵攻によってモスクワが灰燼に帰したこともあった)のだが、イヴァン4世によるカザン、アストラハン制圧は、そんなキプチャク草原東西勢力間の連携を断ち切ることとなった(注3)。ロシア系米国人にしてロシア史の泰斗であるジョージ・ベナルドスキー氏は極めて明解な言葉遣いによって次のように述べている。
地政学の見地から、イヴァン4世がヴォルガ川を下ってアストラハーンへ急進し、ヴォルガ川流域を制圧したことは重要な意味がある。というのは、彼の行動はステップ地帯を二分し、それぞれ両者を別々に管理することが可能となったからである。


斯くの如き、東欧のその東の最果てで割拠するに過ぎなかった一公国が、東のバルハシ湖沿岸から西はドナウ川河口部に至る広大なキプチャク大草原を東西に分割する強固な楔を打ち込み、それによって巨大な帝国へと成長する端緒を掴み取った前例を念頭に置いて当代を見る時、ある巨大な構図が個人的に思い浮かぶ。

即ちそれは、インド洋と西太平洋からなる大海原(そこは世界経済の大動脈でもある)とその脆く不安定な両大洋の結節点、そしてその結節点に巨龍が楔を打ち込まんとしている構図である。

注釈
注1.モンゴル帝国の始祖として名高いチンギス・ハンは、長子のジョチに中央アジア北部の経営を任せた。爾来、彼の家系はキプチャク草原から更にロシア・東欧方面へのモンゴル帝国の拡大を先導する役割を担い、やがてヴォルガ川中下流域の都市サライ一帯を中心とするジョチ・ウルス(一般には支配下に置いた草原の名に因んで「キプチャク・ハン国」という名称で知られる)を形成する。ジョチ・ウルスは14世紀に10代目当主ウズベクの下でイスラム教国化が進むと共に、政治的経済的繁栄期を迎える。その後は中央宗家の衰え等によって各地域で一族が割拠する分裂状態となるが、そのうち、クリミアに拠ったのがクリミア・ハン国、カザンに拠ったのがカザン・ハン国、アストラハンに拠ったのがアストラハン・ハン国である。
注2.クリミア・ハン国は、1475年に王位を巡る内紛もあってオスマン帝国君主メフメト二世(一般にはコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした人物として有名)の庇護下に入る。ただし、このオスマン帝国への服属はかなり名目的なもので、その後もクリミア・ハン国はリトアニア王国やモスクワ大公国、そしてジョチ・ウルス宗家等との間で独自に外交や戦争を繰り広げ、1502年にはサライを壊滅させてジュチ・ウルス宗家に引導を渡している。なおオスマン帝国君主の中でも「大帝」として有名なスレイマン一世の母はクリミア・ハン国王家(ギレイ家という)の王女であり、つまりは母方を通じてチンギス・ハンの血を引いている。
注3.スレイマン一世の息子セリム2世(「大酒呑み」「酔っ払い」という芳しくない渾名が伝わる。なお彼の母はウクライナ出身のスラブ人である)の時代に大宰相として政治の実権を握ったソコルル・パシャ(ボスニア出身)は、モスクワ大公国のカザン、アストラハン制圧が有する戦略的意義を理解し、アストラハン遠征を行う他、ヴォルガ・ドン運河開削による中央アジアのイスラム教徒遊牧民への軍需物資輸送拡大を図ったがいずれも失敗した。


参考文献
・W・E・D・アレン 「16世紀世界史におけるトルコ勢力の諸問題」 2011年8月 あるむ 尾高晋己訳
・山内昌之 「ラディカル・ヒストリー ―ロシア史とイスラム史のフロンティア」 1991年1月 中央公論新社
・田中英道 田中俊子 「ペゴロッティ『商業指南』・訳と註釈」 1984年3月 「イタリア学会誌」33所収
・濱本真実 「イスラームを知る5 共生のイスラーム ―ロシアの正教徒とムスリム」 2011年7月