2011年12月29日木曜日

第四百二十九段 イスラム金融メモ

金利というものは、単純に金銭貸借において授受される他、ある時は投資収益の判断材料となり、またある時は一国の景気の判断基準になったりと我々の社会の様々な局面に深く根付いた存在である。
だが世界とは広いもので、イスラム教徒が多数を占める国・地域では、その金利を排する形で様々な金融取引が行われる所謂「イスラム金融」なるものがあるという。
そんな彼我の金融システムの違いに単純に興味を覚えてちまちまと情報を集めているのだが、それらを取り敢えずまとめてみたのが当該段。

まずイスラム金融の基礎を知るため手にとって見たのが以下の二冊。





どちらの内容も「金利禁止」を最大の特徴とするイスラム金融において、具体的にどのような金融取引・商品が存在するのかを説明するものとなっている。
そんな両書を比較するとどちらかと言うと「イスラム金融―仕組みと動向」の方が例示や図解が多く、分かり易い気がした。
ただし、どちらも「イスラム教では教義によって金利が禁止されている」というのを当然の前提として論を進めているせいか、「金利の禁止」がどのような範囲に及ぶのか? 授受するだけではなく金利を容認する金融システムで用いられているLIBOR等を指標として利用することも駄目なのか? 金利を容認しないイスラム金融と金利を容認する社会で用いられているIFRS等の会計基準との整合性はどのように図られるのか? といった問題点はあまり掘り下げられていない。

次に読んだのが以下の本。



この本では主に前近代を対象として、形而上のみならず日常の様々な諸活動まで包摂するイスラム教と言う価値体系における商業等経済活動の位置付け、並びにそれが如何なる法体系の規制を受けていたかを論じている。従って現代のイスラム金融について直接触れた部分は少ないものの、その歴史的な背景を掴むには好適な一冊だと思われる。
なお、当該作品で最も参考になったのが、イスラム教におけるリバー(日本では一般に「利子」と訳されている)禁止規定についての記述である。それによれば、リバー禁止規定の範囲が不当な高利に限定されるのか利子一般に及ぶのかはイスラム法学派や学者によって長年議論の分かれてきたところであり、前近代においては禁止規定が高利に限定されるという解釈が一般的で、現代、特に1970年代以降は禁止規定が利子一般に及ぶという解釈が有力になったという。
個人的に、モンゴル帝国時代について書かれた本に目を通していて「イスラム商人による中国における金貸し業」に触れた箇所がある度に「イスラム教だと利子の授受は禁止されていたんじゃなかったのか?」と疑問に思っていたのだが、なるほど、前近代のイスラム教においては「不当な高利」のみが禁止されていたのであれば、モンゴル帝国時代にイスラム商人が金貸し業を営んでいても不思議ではない。これで一つ疑問が氷解した。

また最近、カタールの英字紙Gulf Timesに今年12月29日から同国取引所にてカタール政府発行の短期債が取引開始となる旨の記事に出会った。以下に引用した英文がそれである。
T-Bills are public debt instruments (Securities), which are issued by Qatar Central Bank at a discount to the face value. On the maturity date the full par value is paid by the issuer to the investor.
T-Bills provide investors with the opportunity to benefit from a “guaranteed return” over a short period.
QE will begin treasury bills trading with the introduction of a number of TBills, all of which have been issued by Qatar Central Bank to the primary market.
The stock exchange yesterday announced its “full operational and regulatory readiness” to launch the debt instruments market.
Qatar Exchange Deputy CEO Rashid bin Ali al-Mansoori said the QE management received the approval of Qatar Financial Markets’ Authority to launch the Debt Instruments Market. QE has received from Qatar Central Bank a list of T-Bills that will be listed for trading as of December 29.
Al-Mansoori referred to a statement by HE the Qatar Central Bank Governor, Sheikh Abdulla bin Saud al-Thani, which is published on the QCB website in which he announced the start of listing short term T-Bills on the QE from December 29. This is a first step to launch the secondary market trading for bonds on Qatar Exchange providing the diversification of investment instruments in the Qatari market.
The listing of the short term T-Bills on Qatar Exchange is expected to attract the attention of banks, financial institutions as well as investors, and the listing of Government Bonds and the presence of a bond market will encourage companies to issue and list bonds as another alternative for financing and ultimately contribute to increasing liquidity in the market.
A T-Bill has three principal characteristics, which determine its value to an investor. They are discount yield, maturity date and principal amount (Par Value)
The discount yield is a function of the price paid and represents the rate of return on the treasury bill on an annualised basis. The higher the discount yield (the lower the price paid), the greater the return to the investor.
Maturity date is the one on which the issuer repays the par value to the holder of the T-Bill. All T-Bills are short term, as they are issued with a maturity date that is equal to or less than one year from the issue date. They are usually issued with maturity periods of three months, six months and nine months.
2011年12月27日 Gulf Timesより

記事を読むと当該短期債は割引債形式で発行されているらしい。ここで思い出したのが、日本財務省サイトにて公開されていた資料「バハレーンにおけるイスラム金融の実情」で紹介されていた、バーレーン政府発行スクーク債の話である。当該資料によると、バーレーンは以下のような形で割引債に相当するスクーク債を発行していたという。
短期物については、スクーク・サラームという形式で、中銀が政府に、例えば、アルミ(国営の精錬会社あり)を注文し、その資金を前渡して、期日にアルミを売って資金を返還するものである。これによると、前渡金より期日の返済額が多くなるため、いわば割引国債に相当するスキームといえよう。

短期債、そして割引債形式と言う点で12月27日付Gulf Timesが伝えるカタール政府発行債と共通している。ただし当該Gulf Times記事では、バーレーン例における国営アルミ会社に該当するものがあるのか否か、あるとしたらそれはどんなものなのか、といった点がよく分からなかったので、カタール中銀及びカタール取引所のサイト(英語版)に何か情報はないか調べに行った。
だが、両サイトで「T-Bills」等関連するであろう語句を使って検索をかけてみても当該Gulf Times記事以上に詳しい情報を見つけ出すことはできなかった(これは単に自分の調べ方が悪いだけかもしれない)。
それでも収穫が全く無かったわけでもなく、カタール中銀のサイトにて以下の文章を見つけることが出来た。
In September 2003, the Government issued a US $ 700 million Islamic Trust Certificate (ITC or Sukuk). The issued Sukuk had an A+ Standard and Poor’s rating, was endorsed by the Bahrain-based International Islamic Financial Market (IIFM), and was heavily over-subscribed. The Qatari Sukuk carried variable yield at 40 basis points above the LIBOR rate.

この一文から推測するに、スクーク債の投資家に対する利益配分基準を決定する際の指標として、LIBORを利用することはどうやら問題が無いらしい。

「なるほど・・・・」と思っているとまた別の疑問が湧いてきた。それはカタール中銀が設定している「QCB interest rates」の存在である。これってイスラム法上はどんな位置付けになるのだろう?

イスラム金融、まだまだわからないことは多い・・・・・

(不定期に続く)

2011年12月28日水曜日

第四百二十八段 カール・ヴィンソン香港入港のこと

去る2011年12月19日、北朝鮮の最高指導者として君臨してきた金正日総書記の死亡(注1)とその三男たる金正恩氏が後継となったことが報じられた。そして北朝鮮権力事情の不透明さと未だ30歳にも満たない金正恩氏の政治手腕への不安から、韓国や中国、日本といった近隣諸国は、北朝鮮の暴発や急激な崩壊に備えて軍の警戒態勢を強めている(注2)(注3)。

そんな朝鮮半島緊迫化の中、12月27日、米空母カール・ヴィンソンが香港入りした(注4)。これによってマラッカ以東ハワイ以西の海域に展開する米空母は、横須賀のジョージ・ワシントンと香港のカール・ヴィンソンの2隻となった。

個人的にこのカール・ヴィンソンの香港入港は、少なくとも結果的に、朝鮮半島情勢を睨んで実に上手い一手となったのではないかと考えている。
というのも、もし仮にカール・ヴィンソンの寄港地が他の港湾だった場合を考えると、例えば佐世保や釜山であった場合には、最高指導者の死に揺れる北朝鮮にあまりに近過ぎ、新体制移行を巡ってナーバスになっているであろう北朝鮮指導部や軍部に対して過度の「力の誇示」となって無用の刺激を与えかねない問題がある。
他方、もう少し南のマニラに寄港した場合、フィリピンと中国とが南沙諸島問題で対立を深めていることを考えるならば、フィリピン政府は「米比協調の象徴」と捉えて喜ぶであろうものの、米国の意図について中国政府に対し無用の疑念を生じさせかねない。これは朝鮮半島安定化について米国が中国の協力を必要としている状況下では決して望ましいことではないと考えられる。

これら諸港に比して、香港(言うまでもなく中国の支配下にある港湾都市)にカール・ヴィンソンが寄港したことは、朝鮮半島情勢において最も影響力の大きい関係国たる中国政府と米国との関係が少なくとも現時点では安定していることを示すメッセージとなるし、距離的にも仮に北朝鮮で一朝事あった場合に拱手傍観することなく速やかな介入を図れる位置につけたことを意味する(注5)。

以上が、朝鮮半島情勢を睨んでカール・ヴィンソンの香港入港が少なくとも結果的には上手い一手となったと考える理由である(注6)。

注釈
注1.聯合ニュースの2011年12月19日「北朝鮮 金正日総書記死去」参照のこと。なお当該記事によれば、実際に金正日総書記が死亡したのは2011年12月17日のことだという。
注2.聯合ニュースの2011年12月19日「<金総書記死去>韓国軍 非常警戒態勢に突入 」は、同日付で韓国軍が非常警戒態勢に入ったことを伝えている。
注3.朝雲新聞サイトは、2011年12月22日「北朝鮮 金正日総書記が死亡 自衛隊 警戒監視態勢を強化」において、自衛隊が対北朝鮮監視体制を強めていること、そして中国軍が北朝鮮との国境地帯における警備を強化していることを伝えている。
注4.空母カール・ヴィンソンは、整備・補修のため、2011年6月15日来母港サンディエゴに入港していたが、西太平洋地域でのパトロール任務に従事するために2011年11月30日に同港を出港していた。
注5.香港からバシー海峡、宮古島-沖縄本島間を抜けて38度線近隣海域に至るルートの距離が大体3000kmであること、そしてカール・ヴィンソンの速力が30ノット(時速56km相当)以上であることから、仮に香港寄港中の同空母が件のルートを最低速度で動いたとしても、大体2日ちょっとで38度線近隣海域に到達する計算となる。

注6.カール・ヴィンソンの香港寄港と金正日総書記の死亡による北朝鮮の変動期入りが重なったのは偶然であろう

参考資料
・USS Carl Vinson 「In port Hong Kong: 27 December 2011」 2011年12月27日
・朝雲新聞 「北朝鮮 金正日総書記が死亡 自衛隊 警戒監視態勢を強化」 2011年12月22日
・聯合ニュース 「北朝鮮 金正日総書記死去」 2011年12月19日
・聯合ニュース 「<金総書記死去>韓国軍 非常警戒態勢に突入」 2011年12月19日

2011年12月17日土曜日

第四百二十七段 シナイ半島の暗雲

中東にシナイ半島という場所がある。ユーラシア大陸とアフリカ大陸を繋ぐ陸橋として古来よりアケメネス朝ペルシャ帝国やアレクサンダー大王、正統カリフに率いられたアラブ人たち、そしてオスマン朝のセリム一世といった大征服者たちが往来し、また、地中海と紅海(更にその奥に控えるインド洋)の最接近部として、海洋貿易に活躍した無数の商人たちが行き交い、19世紀帝国主義の時代にはスエズ運河の開削によって七つの海に覇を唱える大英帝国の世界戦略、所謂「3C政策」における扇の要ともなった、そんな場所である。

こうした交通・輸送の要衝としてのシナイ半島の位置付けは現在21世紀においても変わってはいない。以下の地図において紺色の線で示したスエズ運河の海上交通における重要性はレセップスの時代から揺らいでいないし、当ブログ「第四百五段 エリュトゥラー海@21世紀」で述べたように欧州と中東・インドを繋ぐ通信ケーブルもこの地を走っている。そして親西側外交に軸足を置くイスラエルやヨルダンに天然ガスを供給するパイプラインもまたシナイ半島やそれに極めて隣接した箇所に敷設されているのである(以下の地図において赤線及び黄色線にて図示)(注1)(注2)。


斯くの如き重要性を有するシナイ半島ではあるが、一方で当該半島は第二次及び第四次中東戦争においてイスラエル-エジプト両軍の激戦地となったこともあり、1979年に両国間で平和条約が締結されて以後、イスラエルは無論のこと、領有国たるエジプトもまた新たな戦争の引き金となることを恐れて軍や警察の大部隊を当該半島に展開することを長く憚ってきた。その結果、当該半島は一種の権力空白地域となり、中東各国で政府から弾圧を受けたイスラム過激派の避難地と化してしまったとされる。
にも関わらず、シナイ半島においては2010年までパイプラインやスエズ運河に対するテロ攻撃は殆ど発生してこなかった。このシナイ半島の不思議な安定状態をもたらした要因について、東京財団の佐々木良昭主任研究員は以下のように述べている(注3)。
シナイ半島に住むベドウインの部族は、ムバーラク大統領の時代、ある種の秘密の合意が、あったのであろう。その秘密合意に基づいて、ベドウイン部族はガザに密輸をするうえで、自分たちで自主的に、制限を設けていたのであろう。
 同時に、シナイ半島に入ってくるよそ者に対しては、厳しい監視の目を、光らせていたものと思われる。

つまり、エジプト軍・警察が表立ってシナイ半島に展開すれば、如何に「国際的な重要性を持つ半島地域の安定確保」という大義名分があったとしても、幾度も戦火を交えたイスラエルの疑心は免れ得ず、却って当該半島に不要な緊張をもたらしかねない、そこで地元のベドウィンにシナイ半島におけるイスラム過激派等の活動を牽制させ、その見返りにエジプト政府から何らかのアメを彼らに与えた、この仕組みがシナイ半島の安定をもたらしてきたのだろう、というわけである。

しかし、2011年1月にムバラク政権が民衆の大規模な反政府デモをきっかけとして崩壊して後、エジプト政府とシナイ・ベドウィンの協力関係も政権と運命を共にしてしまったのか、シナイ半島の治安状況は一気に悪化し、エジプトからイスラエル・ヨルダンに向かうガス・パイプラインへの攻撃やタバ等シナイ半島リゾート地を狙った爆弾テロが相次いで発生するようになった。
そこでエジプト政府は、今年8月に入ってイスラエルの了承を取り付けた上で1000名規模の兵力をシナイ半島北部を中心に展開させて同半島の治安回復を図ったのだが、パイプライン等に対するテロ攻撃はその後も続き(注4)、治安維持における従来の協力者であったベドウィンとの関係についても、金銭等現実的便益の提供によるアル・カイーダ等過激派勢力による切崩し工作が着々と進行しているとの指摘が現れた(注5)。
こうしたエジプト政府の苦闘に業を煮やしたのか、イスラエル・メディアからは「政府はシナイ半島介入部隊の派遣も考慮すべき」といった声も報じられている(注6)。

以上のようなシナイ半島情勢に加え、エジプト本土では、人民議会選挙においてイスラエルとの平和条約について見直しも辞さない姿勢を示すイスラム主義勢力の大躍進がほぼ揺るぎない状態となっていることを考え合わすと、今のシナイ半島を取り巻く状況はかなり剣呑なものと言えるのではないか。そしてもし万が一、当該半島で悲劇的な事態が発生すれば、それは隣接するイスラエル、エジプトの二カ国にとどまらず、スエズ運河、通信ケーブル、パイプラインといった導火線によって、中東域内域外を問わない多くの国々に不幸な結果を波及させていくことになるのではないだろうか。

注釈
注1.イスラエルの2008年時点の発電能力11675MWのうち、天然ガスが占める割合は26%程度となっている(石炭が約65%で最大)。そして同年における天然ガス供給量においてエジプト産が占める割合は15%ほどとされる。なおイスラエルは東地中海における自国EEZ内での海底ガス田開発を進めている他、イスラエル企業がキプロス政府の海底ガス田開発に協力しているが、これらの行動に対してレバノンやトルコが反発を強めてもいる。
注2.ヨルダンは年によって多少の異同はあるものの、エネルギー資源の概ね9割強を近隣諸国からの輸入に頼っているとされる。そんなヨルダンに対するエジプトの天然ガス輸出は、2003年に11億立方メートル/年をパイプラインで輸出したことから始まった。2007年時点でエジプトの対ヨルダン天然ガス輸出量は23.5憶立方メートル/年(全輸出量の約15%)となっており、これはヨルダンにとって発電容量のほぼ8割に相当する。なおエジプトにとって同年時点で最大の天然ガス輸出先はスペインであり、輸出量は40.4憶立方メートル/年で全輸出量の25%ほどを占めている。
注3.同氏のブログ「中東TODAY NO・2067「シナイ半島がイスラム国家になる危険」」を参照のこと
注4.シナイ半島でのパイプラインに対するテロ攻撃は今年に入って8回発生している。最新のケースは11月25日に発生している。詳細についてはPetraの2011年11月25日「Egypt gas pipeline attacked」等を参照のこと
注5.
Jerusalem Postの2011年11月18日「Sinai Beduin join al-Qaida out of bitterness, not ideology」を参照のこと
注6.Jerusalem Postの2011年11月24日「'Israel should consider Sinai intervention force'」を参照のこと


参考資料
・Al Arabiya News 「Local sources say Bin Laden’s doctor trains Sinai militants, security official denies」 2011年8月25日
・HAARETZ 「Egypt deploys thousands of troops and tanks in Sinai, in coordination with Israel」 2011年8月14日
Jerusalem Post 「Sinai Beduin join al-Qaida out of bitterness, not ideology」 2011年11月18日
・Jerusalem Post 「'Israel should consider Sinai intervention force'」 2011年11月24日
・JETRO 「中東および北アフリカにおける再生可 能エネルギー市場に関する調査 ~アルジェリア、バーレーン、ヨルダン、クウェート、リビア、モ ロッコ、オマーン、カタール、シリア、チュニジア編~」 2010年3月
・JETRO 「中東および北アフリカにおける再生可能エ ネルギー市場に関する調査 ~イスラエル編~」 2010年3月
・JOGMEC 「イスラエル・パレスチナ自治区: ガス資源開発が平和をもたらすものとなるか?」 2009年6月
・JOGMEC 「イスラエル:巨大ガス田発見による期待と不安」 2010年8月
・JOGMEC 「イスラエル沖合の探鉱:レバノンとの境界線問題」 2011年7月
・JOGMEC 「イスラエル・キプロスにおける大規模ガス発見と東地中海地域を取り巻く情勢」 2011年11月
・Petra 「Egypt gas pipeline attacked」 2011年11月25日
・アブラハム・ラビノビッチ 「ヨムキプール戦争全史」 2008年12月 並木書房 滝川義人訳
・佐々木良昭 中東TODAY NO・2067「シナイ半島がイスラム国家になる危険」 2011年8月

2011年12月4日日曜日

第四百二十六段 青木周蔵のボルネオ買収計画

かつて「お金で買えないものはない」と豪語していた御仁がいたかと思う。実際、お金で買えるものはこの世にいと多く、状況と額が許せば、世間があっというようなものも買えたりするものである。

そう、例えば・・・・領土とか・・・・

「領土を金で買う」というとかなり突飛な話のように思われるだろうが、歴史を顧みるとあり得ない話でもない。一例を挙げると、北米東海岸で産声をあげたアメリカ合衆国が西部へとその版図を拡大させていく過程では、度々欧州列強やメキシコに金を払って領土を購入しているし、1867年にロマノフ朝ロシアに720万ドルを払ってアラスカを買収したことはあまりに有名であろう。
だが、米国のアラスカ買収から10年ちょっと後、大日本帝国においても「領土を金で買う話」が政府内で真面目に検討されていたことはあまり知られていないように思える。

この大日本帝国における「領土を金で買う」話の発起人は明治期の外交で活躍した青木周蔵、そして買収対象となったのはボルネオ北部であった。

青木周蔵は明治7、8年頃より、明治日本において人口増大の勢いが増していること、そして増えた人口を国内の生産物だけでは養いきれないこと、故に日本の生きる道は海外や植民地から原材料を輸入してこれを加工・輸出し、その利益で食糧を輸入する以外にないとの考えを抱いていた。自伝の中で彼は次のように述べている。
当時我国の統計は頗る疎漏にして数字の表はその正確保ち難きに似たれども、人口の蕃殖は甚だ顕著なる事実にして、早晩国民の需要する食物の不足する事は明に予知せられたり。然るに国土狭少なる嶋帝国の地形は山嶽重畳して曠野に乏し。故に、荒蕪地を開拓して大に農業を拡張するも到底国民の需要する食料を十分増殖すること能はず、又、山海の鳥獣及び魚類のみを以て国民の口腹を養うことは困難なるに由り、将来日本の政策としては、一も二もなく、英国の政策を模倣して、植民地及び領地より各種の原料を輸入し、内国に於て盛に製造業を起し、之に由て得たる利益を以て海外より食料の輸入するの外、別に名策あることなし。

だが当事、日本列島周辺の地域はその多くが既に欧州列強の植民地となっているか、さもなくば、改革途上の大日本帝国にとっては未だ侮れぬ力を有していると目されていた清朝の勢力下にあるという有様で、青木周蔵が渇望していた原材料生産地としての植民地獲得は一見すると甚だ困難な形勢下にあった。
そんな青木周蔵の目にとまったのがボルネオ北部であった。マレー半島やジャワ島等と違い、どういうわけか同地はオーストリア貴族フォン・オーベルベック男爵の個人所有となっていて未だ英国やオランダ、フランスの支配下には入っていなかったのである。明治12年(1879年)5~8月頃、青木周蔵は、オーベルベック男爵と交渉して男爵が保有するノース・ボルネオ(現在のマレーシアにおけるサバ、サラワクに該当する。以下の地図参照)を大日本帝国が買収するという案を立て、早速オーベルベック男爵との事前交渉を開始する。


この事前交渉は成功裏に終わり、青木周蔵はオーベルベック男爵と以下の内約を締結した上で政府に建議し、井上馨外務卿及び榎本武楊、岩倉具視右大臣の賛同を得ることにも成功する(注1)。

<ノース・ボルネオ買収に係る青木周蔵とオーベルベック男爵の内約>
・ノース・ボルネオの代価は100万ドルとする
・代価は条約調印と同時に3分の1を支払い、3分の2は条約締結後6ヶ月以内の後払いとする
・青木周蔵は日本帰国後、3ヶ月以内に買収決定か否かの連絡をすること

しかし、当該買収計画は伊藤博文の以下のような反対論表明によって暗礁に乗り上げてしまう。
日本は此の如き領地を海外に所有するの必要なし。且、縦し本地域を買収せんとするも、英国は必ず異議を挿んで之を防ぐべし。斯る危険の計画を企図し他国と衝突を招くが如きは、最も避くべきの事たるに由り、予は徹頭徹尾賛成する能はず。

結局、青木周蔵は伊藤博文の翻意に成功することはなく、内約で定めた3ヶ月という期限が到来したこともあって大日本帝国による領土買収は結局幻のまま終わってしまった。そしてこれ以後、大日本帝国が極東の軍事大国として成長したこともあって「領土を金で買う」という考え自体が政府内で持ち上がることもまたなかったのだった。

では、英国の反応を恐れて青木周蔵の計画を葬り去った伊藤博文の判断は妥当なものであったのだろうか?
ここで青木周蔵がノース・ボルネオ買収計画の実現に乗り出した1879年中頃がどういう時期であったかを、以下の簡単な年表で振り返ってみたい。

1874年
5月 大日本帝国軍、台湾に出兵(同地の山岳民族が漂着した宮古島漁師を殺害したことへの報復)
1875年
9月 江華島事件
1877年
2月 西南戦争勃発(~9月)
4月 露土戦争勃発(~1878年3月)
12月 左宗棠、新疆の清朝支配を回復
1878年
11月 第二次アフガン戦争勃発(~1881年)
1879年
4月4日 琉球処分(琉球藩廃止と沖縄県設置により、琉球列島が大日本帝国領に組み込まれた)
6月~9月 青木周蔵が「ノース・ボルネオ買収計画」実現に向けて活動
9月 露清間でリヴァディア条約が締結
10月7日 独墺同盟調印
10月12日 英軍がカブールを占領

ざっと年表を見渡すと、青木周蔵が「ノース・ボルネオ買収計画」実現に向けて活動した1879年中頃というのは、1874年来、大日本帝国台湾出兵、江華島事件、琉球処分といったイベントが発生して大日本帝国と清朝との間で緊張が高まっていた時期であり、しかも大日本帝国国内では西南戦争が終結してまだ2年もたっておらず、更には北方のロマノフ朝ロシアが露土戦争での勝利によって更なる南下の構えを示していた頃である。伊藤博文が重大視していた英国は、ロマノフ朝ロシアの南下政策に対抗してアフガニスタンの緩衝国化を確固たるものとすべく2回目のアフガン戦争に乗り出してこれに苦戦していた。
このように、西の清朝とは緊張が高まり、北のロシアは戦勝の勢いに乗っているという状況下、効果のほど定かならざるボルネオ買収に乗り出して英国の神経を徒に逆撫ですることは、如何に英国がアフガニスタンで呻吟しているとは言っても極東の途上国には荷が重すぎると判断した伊藤博文の考えにも、相応の理はあったというべきであろう。

このように、結局は実現しないままに終わった青木周蔵の「ノース・ボルネオ買収計画」であるが、もし仮に実現していたとすれば、後年、大日本帝国の支配下にはいった朝鮮半島や台湾、マンチュリア等のように、ボルネオ北部にも多くの日本人が渡来して生活基盤を築いたであろうことは想像に難くないし、1898年にスペインに代わってフィリピンを植民地とした米国との関係にも大きな影響を与えていたことであろう。
そう考えると、当該買収計画は、国の領域やあり様というのものが先天的に泰然確固として存在するものではなく、その時その時の成行きや偶然の巡り合わせでどう動くかわからない脆さ(柔軟さ)を含んだ結果論の積み重ねに過ぎない、というのを教えてくれる良い事例だとも言えるのかもしれない。

注釈
注1.もっとも榎本武楊の積極的な賛成に比して井上馨や岩倉具視の姿勢は「大筋では賛成だが、他の有力者の意見も聞いてみた方が良い」という消極的なものであった。また、井上馨については後年の伊藤博文宛書簡の中でボルネオ買収反対の立場を鮮明にしている

参考資料
・ピーター・ホップカーク 「ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦」 1992年5月 中央公論新社 京谷公雄訳
・青木周蔵 「青木周蔵自伝」 1970年8月 平凡社 坂根義久校注
・岡本隆司 「李鴻章 -東アジアの近代」 2011年11月 岩波書店