2011年12月4日日曜日

第四百二十六段 青木周蔵のボルネオ買収計画

かつて「お金で買えないものはない」と豪語していた御仁がいたかと思う。実際、お金で買えるものはこの世にいと多く、状況と額が許せば、世間があっというようなものも買えたりするものである。

そう、例えば・・・・領土とか・・・・

「領土を金で買う」というとかなり突飛な話のように思われるだろうが、歴史を顧みるとあり得ない話でもない。一例を挙げると、北米東海岸で産声をあげたアメリカ合衆国が西部へとその版図を拡大させていく過程では、度々欧州列強やメキシコに金を払って領土を購入しているし、1867年にロマノフ朝ロシアに720万ドルを払ってアラスカを買収したことはあまりに有名であろう。
だが、米国のアラスカ買収から10年ちょっと後、大日本帝国においても「領土を金で買う話」が政府内で真面目に検討されていたことはあまり知られていないように思える。

この大日本帝国における「領土を金で買う」話の発起人は明治期の外交で活躍した青木周蔵、そして買収対象となったのはボルネオ北部であった。

青木周蔵は明治7、8年頃より、明治日本において人口増大の勢いが増していること、そして増えた人口を国内の生産物だけでは養いきれないこと、故に日本の生きる道は海外や植民地から原材料を輸入してこれを加工・輸出し、その利益で食糧を輸入する以外にないとの考えを抱いていた。自伝の中で彼は次のように述べている。
当時我国の統計は頗る疎漏にして数字の表はその正確保ち難きに似たれども、人口の蕃殖は甚だ顕著なる事実にして、早晩国民の需要する食物の不足する事は明に予知せられたり。然るに国土狭少なる嶋帝国の地形は山嶽重畳して曠野に乏し。故に、荒蕪地を開拓して大に農業を拡張するも到底国民の需要する食料を十分増殖すること能はず、又、山海の鳥獣及び魚類のみを以て国民の口腹を養うことは困難なるに由り、将来日本の政策としては、一も二もなく、英国の政策を模倣して、植民地及び領地より各種の原料を輸入し、内国に於て盛に製造業を起し、之に由て得たる利益を以て海外より食料の輸入するの外、別に名策あることなし。

だが当事、日本列島周辺の地域はその多くが既に欧州列強の植民地となっているか、さもなくば、改革途上の大日本帝国にとっては未だ侮れぬ力を有していると目されていた清朝の勢力下にあるという有様で、青木周蔵が渇望していた原材料生産地としての植民地獲得は一見すると甚だ困難な形勢下にあった。
そんな青木周蔵の目にとまったのがボルネオ北部であった。マレー半島やジャワ島等と違い、どういうわけか同地はオーストリア貴族フォン・オーベルベック男爵の個人所有となっていて未だ英国やオランダ、フランスの支配下には入っていなかったのである。明治12年(1879年)5~8月頃、青木周蔵は、オーベルベック男爵と交渉して男爵が保有するノース・ボルネオ(現在のマレーシアにおけるサバ、サラワクに該当する。以下の地図参照)を大日本帝国が買収するという案を立て、早速オーベルベック男爵との事前交渉を開始する。


この事前交渉は成功裏に終わり、青木周蔵はオーベルベック男爵と以下の内約を締結した上で政府に建議し、井上馨外務卿及び榎本武楊、岩倉具視右大臣の賛同を得ることにも成功する(注1)。

<ノース・ボルネオ買収に係る青木周蔵とオーベルベック男爵の内約>
・ノース・ボルネオの代価は100万ドルとする
・代価は条約調印と同時に3分の1を支払い、3分の2は条約締結後6ヶ月以内の後払いとする
・青木周蔵は日本帰国後、3ヶ月以内に買収決定か否かの連絡をすること

しかし、当該買収計画は伊藤博文の以下のような反対論表明によって暗礁に乗り上げてしまう。
日本は此の如き領地を海外に所有するの必要なし。且、縦し本地域を買収せんとするも、英国は必ず異議を挿んで之を防ぐべし。斯る危険の計画を企図し他国と衝突を招くが如きは、最も避くべきの事たるに由り、予は徹頭徹尾賛成する能はず。

結局、青木周蔵は伊藤博文の翻意に成功することはなく、内約で定めた3ヶ月という期限が到来したこともあって大日本帝国による領土買収は結局幻のまま終わってしまった。そしてこれ以後、大日本帝国が極東の軍事大国として成長したこともあって「領土を金で買う」という考え自体が政府内で持ち上がることもまたなかったのだった。

では、英国の反応を恐れて青木周蔵の計画を葬り去った伊藤博文の判断は妥当なものであったのだろうか?
ここで青木周蔵がノース・ボルネオ買収計画の実現に乗り出した1879年中頃がどういう時期であったかを、以下の簡単な年表で振り返ってみたい。

1874年
5月 大日本帝国軍、台湾に出兵(同地の山岳民族が漂着した宮古島漁師を殺害したことへの報復)
1875年
9月 江華島事件
1877年
2月 西南戦争勃発(~9月)
4月 露土戦争勃発(~1878年3月)
12月 左宗棠、新疆の清朝支配を回復
1878年
11月 第二次アフガン戦争勃発(~1881年)
1879年
4月4日 琉球処分(琉球藩廃止と沖縄県設置により、琉球列島が大日本帝国領に組み込まれた)
6月~9月 青木周蔵が「ノース・ボルネオ買収計画」実現に向けて活動
9月 露清間でリヴァディア条約が締結
10月7日 独墺同盟調印
10月12日 英軍がカブールを占領

ざっと年表を見渡すと、青木周蔵が「ノース・ボルネオ買収計画」実現に向けて活動した1879年中頃というのは、1874年来、大日本帝国台湾出兵、江華島事件、琉球処分といったイベントが発生して大日本帝国と清朝との間で緊張が高まっていた時期であり、しかも大日本帝国国内では西南戦争が終結してまだ2年もたっておらず、更には北方のロマノフ朝ロシアが露土戦争での勝利によって更なる南下の構えを示していた頃である。伊藤博文が重大視していた英国は、ロマノフ朝ロシアの南下政策に対抗してアフガニスタンの緩衝国化を確固たるものとすべく2回目のアフガン戦争に乗り出してこれに苦戦していた。
このように、西の清朝とは緊張が高まり、北のロシアは戦勝の勢いに乗っているという状況下、効果のほど定かならざるボルネオ買収に乗り出して英国の神経を徒に逆撫ですることは、如何に英国がアフガニスタンで呻吟しているとは言っても極東の途上国には荷が重すぎると判断した伊藤博文の考えにも、相応の理はあったというべきであろう。

このように、結局は実現しないままに終わった青木周蔵の「ノース・ボルネオ買収計画」であるが、もし仮に実現していたとすれば、後年、大日本帝国の支配下にはいった朝鮮半島や台湾、マンチュリア等のように、ボルネオ北部にも多くの日本人が渡来して生活基盤を築いたであろうことは想像に難くないし、1898年にスペインに代わってフィリピンを植民地とした米国との関係にも大きな影響を与えていたことであろう。
そう考えると、当該買収計画は、国の領域やあり様というのものが先天的に泰然確固として存在するものではなく、その時その時の成行きや偶然の巡り合わせでどう動くかわからない脆さ(柔軟さ)を含んだ結果論の積み重ねに過ぎない、というのを教えてくれる良い事例だとも言えるのかもしれない。

注釈
注1.もっとも榎本武楊の積極的な賛成に比して井上馨や岩倉具視の姿勢は「大筋では賛成だが、他の有力者の意見も聞いてみた方が良い」という消極的なものであった。また、井上馨については後年の伊藤博文宛書簡の中でボルネオ買収反対の立場を鮮明にしている

参考資料
・ピーター・ホップカーク 「ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦」 1992年5月 中央公論新社 京谷公雄訳
・青木周蔵 「青木周蔵自伝」 1970年8月 平凡社 坂根義久校注
・岡本隆司 「李鴻章 -東アジアの近代」 2011年11月 岩波書店