2011年12月17日土曜日

第四百二十七段 シナイ半島の暗雲

中東にシナイ半島という場所がある。ユーラシア大陸とアフリカ大陸を繋ぐ陸橋として古来よりアケメネス朝ペルシャ帝国やアレクサンダー大王、正統カリフに率いられたアラブ人たち、そしてオスマン朝のセリム一世といった大征服者たちが往来し、また、地中海と紅海(更にその奥に控えるインド洋)の最接近部として、海洋貿易に活躍した無数の商人たちが行き交い、19世紀帝国主義の時代にはスエズ運河の開削によって七つの海に覇を唱える大英帝国の世界戦略、所謂「3C政策」における扇の要ともなった、そんな場所である。

こうした交通・輸送の要衝としてのシナイ半島の位置付けは現在21世紀においても変わってはいない。以下の地図において紺色の線で示したスエズ運河の海上交通における重要性はレセップスの時代から揺らいでいないし、当ブログ「第四百五段 エリュトゥラー海@21世紀」で述べたように欧州と中東・インドを繋ぐ通信ケーブルもこの地を走っている。そして親西側外交に軸足を置くイスラエルやヨルダンに天然ガスを供給するパイプラインもまたシナイ半島やそれに極めて隣接した箇所に敷設されているのである(以下の地図において赤線及び黄色線にて図示)(注1)(注2)。


斯くの如き重要性を有するシナイ半島ではあるが、一方で当該半島は第二次及び第四次中東戦争においてイスラエル-エジプト両軍の激戦地となったこともあり、1979年に両国間で平和条約が締結されて以後、イスラエルは無論のこと、領有国たるエジプトもまた新たな戦争の引き金となることを恐れて軍や警察の大部隊を当該半島に展開することを長く憚ってきた。その結果、当該半島は一種の権力空白地域となり、中東各国で政府から弾圧を受けたイスラム過激派の避難地と化してしまったとされる。
にも関わらず、シナイ半島においては2010年までパイプラインやスエズ運河に対するテロ攻撃は殆ど発生してこなかった。このシナイ半島の不思議な安定状態をもたらした要因について、東京財団の佐々木良昭主任研究員は以下のように述べている(注3)。
シナイ半島に住むベドウインの部族は、ムバーラク大統領の時代、ある種の秘密の合意が、あったのであろう。その秘密合意に基づいて、ベドウイン部族はガザに密輸をするうえで、自分たちで自主的に、制限を設けていたのであろう。
 同時に、シナイ半島に入ってくるよそ者に対しては、厳しい監視の目を、光らせていたものと思われる。

つまり、エジプト軍・警察が表立ってシナイ半島に展開すれば、如何に「国際的な重要性を持つ半島地域の安定確保」という大義名分があったとしても、幾度も戦火を交えたイスラエルの疑心は免れ得ず、却って当該半島に不要な緊張をもたらしかねない、そこで地元のベドウィンにシナイ半島におけるイスラム過激派等の活動を牽制させ、その見返りにエジプト政府から何らかのアメを彼らに与えた、この仕組みがシナイ半島の安定をもたらしてきたのだろう、というわけである。

しかし、2011年1月にムバラク政権が民衆の大規模な反政府デモをきっかけとして崩壊して後、エジプト政府とシナイ・ベドウィンの協力関係も政権と運命を共にしてしまったのか、シナイ半島の治安状況は一気に悪化し、エジプトからイスラエル・ヨルダンに向かうガス・パイプラインへの攻撃やタバ等シナイ半島リゾート地を狙った爆弾テロが相次いで発生するようになった。
そこでエジプト政府は、今年8月に入ってイスラエルの了承を取り付けた上で1000名規模の兵力をシナイ半島北部を中心に展開させて同半島の治安回復を図ったのだが、パイプライン等に対するテロ攻撃はその後も続き(注4)、治安維持における従来の協力者であったベドウィンとの関係についても、金銭等現実的便益の提供によるアル・カイーダ等過激派勢力による切崩し工作が着々と進行しているとの指摘が現れた(注5)。
こうしたエジプト政府の苦闘に業を煮やしたのか、イスラエル・メディアからは「政府はシナイ半島介入部隊の派遣も考慮すべき」といった声も報じられている(注6)。

以上のようなシナイ半島情勢に加え、エジプト本土では、人民議会選挙においてイスラエルとの平和条約について見直しも辞さない姿勢を示すイスラム主義勢力の大躍進がほぼ揺るぎない状態となっていることを考え合わすと、今のシナイ半島を取り巻く状況はかなり剣呑なものと言えるのではないか。そしてもし万が一、当該半島で悲劇的な事態が発生すれば、それは隣接するイスラエル、エジプトの二カ国にとどまらず、スエズ運河、通信ケーブル、パイプラインといった導火線によって、中東域内域外を問わない多くの国々に不幸な結果を波及させていくことになるのではないだろうか。

注釈
注1.イスラエルの2008年時点の発電能力11675MWのうち、天然ガスが占める割合は26%程度となっている(石炭が約65%で最大)。そして同年における天然ガス供給量においてエジプト産が占める割合は15%ほどとされる。なおイスラエルは東地中海における自国EEZ内での海底ガス田開発を進めている他、イスラエル企業がキプロス政府の海底ガス田開発に協力しているが、これらの行動に対してレバノンやトルコが反発を強めてもいる。
注2.ヨルダンは年によって多少の異同はあるものの、エネルギー資源の概ね9割強を近隣諸国からの輸入に頼っているとされる。そんなヨルダンに対するエジプトの天然ガス輸出は、2003年に11億立方メートル/年をパイプラインで輸出したことから始まった。2007年時点でエジプトの対ヨルダン天然ガス輸出量は23.5憶立方メートル/年(全輸出量の約15%)となっており、これはヨルダンにとって発電容量のほぼ8割に相当する。なおエジプトにとって同年時点で最大の天然ガス輸出先はスペインであり、輸出量は40.4憶立方メートル/年で全輸出量の25%ほどを占めている。
注3.同氏のブログ「中東TODAY NO・2067「シナイ半島がイスラム国家になる危険」」を参照のこと
注4.シナイ半島でのパイプラインに対するテロ攻撃は今年に入って8回発生している。最新のケースは11月25日に発生している。詳細についてはPetraの2011年11月25日「Egypt gas pipeline attacked」等を参照のこと
注5.
Jerusalem Postの2011年11月18日「Sinai Beduin join al-Qaida out of bitterness, not ideology」を参照のこと
注6.Jerusalem Postの2011年11月24日「'Israel should consider Sinai intervention force'」を参照のこと


参考資料
・Al Arabiya News 「Local sources say Bin Laden’s doctor trains Sinai militants, security official denies」 2011年8月25日
・HAARETZ 「Egypt deploys thousands of troops and tanks in Sinai, in coordination with Israel」 2011年8月14日
Jerusalem Post 「Sinai Beduin join al-Qaida out of bitterness, not ideology」 2011年11月18日
・Jerusalem Post 「'Israel should consider Sinai intervention force'」 2011年11月24日
・JETRO 「中東および北アフリカにおける再生可 能エネルギー市場に関する調査 ~アルジェリア、バーレーン、ヨルダン、クウェート、リビア、モ ロッコ、オマーン、カタール、シリア、チュニジア編~」 2010年3月
・JETRO 「中東および北アフリカにおける再生可能エ ネルギー市場に関する調査 ~イスラエル編~」 2010年3月
・JOGMEC 「イスラエル・パレスチナ自治区: ガス資源開発が平和をもたらすものとなるか?」 2009年6月
・JOGMEC 「イスラエル:巨大ガス田発見による期待と不安」 2010年8月
・JOGMEC 「イスラエル沖合の探鉱:レバノンとの境界線問題」 2011年7月
・JOGMEC 「イスラエル・キプロスにおける大規模ガス発見と東地中海地域を取り巻く情勢」 2011年11月
・Petra 「Egypt gas pipeline attacked」 2011年11月25日
・アブラハム・ラビノビッチ 「ヨムキプール戦争全史」 2008年12月 並木書房 滝川義人訳
・佐々木良昭 中東TODAY NO・2067「シナイ半島がイスラム国家になる危険」 2011年8月