2012年1月8日日曜日

第四百三十二段 琉球諸島プレイスメント

身に沁みるような冷風の吹き荒ぶ昨今、叶うならば常夏の南国にでも我が身を移したい衝動にかられるが、そんな「常夏の南国」というと日本で真っ先に思い浮かぶのが沖縄本島を中心とした琉球諸島である。この琉球諸島、亜熱帯気候に属し、殆どの島々で稲作に適した平野や河川の存在を欠くために生活の活路を海に見出さざるを得ない、日本本土(注1)や朝鮮半島、中国大陸や台湾と海路を通じて隣接していると言った地理的条件を背景に日本本土とは大きく異なる独特の文化・歴史を展開させて今日に至っている。

こう言うと、かつては独立の王国であった「琉球王国」やそれに対する大日本帝国の「琉球処分」、1945年の地上戦を経た上での米国による占領と1972年まで続くその統治等がすぐさま連想されるであろうが、それ以外にも、琉球諸島を巡っては現代の我々がよく知る今の形、即ち、「日本国沖縄県」という形とは異なる状態になり得た動きが数々存在したことはあまり知られていない。

琉球諸島の所属が現在の我々にとっては常識とも言える「日本国沖縄県」という枠組みとは異なる状態になり得た例として最初に挙げるのは、「分島改約案と琉球三分論」である。
長らく薩摩藩(日本)の実質的支配下にありながら清王朝への朝貢も続けるという状態を続けてきた琉球王国だが、明治維新(1867年)を経て誕生した大日本帝国は1879年、「琉球処分」を行って琉球王国とその支配下にあった琉球諸島の島々を自国の領域に組み込む。だがこれに長年琉球の朝貢を受け入れてきた清王朝が反発の構えを示したことから、両国はグラント前米国大統領(当時)の仲介によって琉球諸島の位置付けを確定するため、翌1880年(明治13年)に交渉を開始することになる。
この時、大日本帝国側が提示したのが「分島改約案」というもので、概略的に内容を述べると、「琉球諸島のうち台湾に近い宮古・八重山両島は清朝に割譲し(分島)、清朝はその見返りとして日清修好条約を改定して日本商人に西洋人と同様の中国大陸における通商権や大日本帝国に対する最恵国待遇を認める(改約)」というものであった。
一方の清朝側が提示した「琉球三分論」とは、「琉球諸島のうち、中部には琉球王国を復活させて日清両国がこれを保護する。そして北部の奄美諸島は大日本帝国領とし、南部の宮古・八重山両島は清朝領とする」というものであった。
両案の主張する所をそれぞれ地図で示したのが以下のものである(ただし、境界線は概略的なもの)。


日清両国の交渉は8回にわたって行われたが、清朝側で「琉球三分論」提唱者たる李鴻章の力が権力闘争で弱まったこともあり、交渉は大日本帝国側が提示した「分島改約案」をベースとして行われることとなった。そして1880年10月21日に「分島改約案」を概ね認める形で日清両国間合意が成立し、琉球条約案が両国全権の間で議定された。
このまま当該条約案が調印されれば宮古・八重山は清王朝の領有となり、ひいてはその後継国家たる中華人民共和国若しくは台湾(中華民国)の領有となっていたのであろうが、清王朝側で「分島改約案」に反対していた李鴻章が権力闘争で巻き返しに成功したこと、そしてその李鴻章によってロマノフ朝ロシアとの関係が改善されたことによって「我々に不利な分島改約案に則った条約なぞ調印する必要はない」という声が強まったことで、大日本帝国側の条約調印督促も空しく、琉球条約案は店晒し状態となってしまう。
結果、琉球諸島の帰属については日清両国間で確たる取り決めもないまま大日本帝国による実効支配が続き、やがて1894年の日清戦争において大日本帝国が勝利し清朝が敗北したことで、琉球内部の親清朝派の発言力が決定的に失われたこと、台湾・澎湖諸島までが大日本帝国領となったこと等により「琉球諸島全体が大日本帝国に属する」という見方がデファクト・スタンダードとなり、後の日本国にまで引き継がれていくのである。

二つ目に上げるのは、「大日本帝国琉球諸島放棄案」である。
時は1945年、ナチス・ドイツに与して太平洋戦争を開始したものの、既に「絶対的国防圏」と見なしていたマリアナ諸島が陥落して首都東京までもがB-29の猛爆に晒され、まさに大日本帝国が滅亡を前にした断末魔の叫びをあげていた時の話である。
繰り返しめいてしまうが、マリアナ諸島が陥落してそこを起点としたB-29の爆撃が日常化し、米潜水艦隊による通商破壊作戦が大日本帝国の兵站をずたずたに引き裂いていた1945年、大日本帝国上層部は「本土決戦で米軍に痛撃を与え、その後ソ連を仲介役として講和に持ち込む」という構想を未だ捨ててはいなかった。同年2月(4日~11日)のヤルタ会談にてスターリンが米英に対し対日参戦を確約していたことを知っている未来人の目からすれば狂気の沙汰としか言いようのない考えであるが、それを知らない当時の上層部は一縷の望みをソ連に託して疑わなかったのである(注2)(注3)。
斯くの如き事情を反映して参謀本部の種村佐孝大佐(当時)が1945年4月20日に提出した「今後ノ對「ソ」施策ニ對スル意見」には以下の如き記述があって注目される(太赤字は著者による)(注4)。
四 對ソ施策實施上我方ノ譲歩スベキ条件

前項目的ノ達成ノ為必要ナル条件ハ悉ク之ヲ停止シ譲歩シ解放シ断念スルニ吝カデアツテハイケナイ、換言スレハ「ソ」側ノ言イナリ放題ニナツテ眼ヲ潰ル、
日清戦争後ニ於ケル遼東半島ヲ還付シタ悲壮ナル決心ニ立換ツタナラバ今日日本ガ満洲ヤ遼東半島ヤ或ハ南樺太、台湾ヤ琉球ヤ北千島ヤ朝鮮ヲカナグリ捨テヽ
日清戦争前ノ態勢ニ立チ還リ、明治御維新ヲ昭和ノ御維新ニヨツテ再建スルノ覚悟ヲ以テ飽ク迄日「ソ」戦ヲ回避シ對米英戦争ニ邁進シナクテハナラナイ
結局、スターリンが既に対日参戦を決定していたこともあって、この種村大佐案が実を結ぶことはなかったのだが、もし仮に当時の大日本帝国が「日清戦争前ノ態勢」に立ち返ることに成功していたなら、放棄された各海外植民地及び琉球諸島がどのように分割されていたのか、非常に想像を掻き立てる題材と言えよう。

また、手許に詳細な資料がないので3例目としては挙げなかったが、1949年の与那国町長選では「日本復帰派」、「与那国独立派」、「台湾(中華民国)帰属派」がそれぞれ擁立した3候補の争いとなり、「日本復帰派」候補が勝利したという事例もある。

これら諸事例が示すように、琉球諸島とは明治以降の日本において極めて国境線変更やそれに繋がりかねない事態が発生し易い、謂わば「柔らかい下腹部」であり続けてきたのだ。

ところで、地方が中央に期待するのは、基本的に中央が方々から集めた(収奪した)経済的利益の再配分と安全保障である。もしこの地方の希望を中央が果たせなくなれば、両者の間に共通の歴史や文化、宗教があろうがなかろうが、中央がよほど強権的な措置を取らない限り地方は独立して自ら権益と平和の確保に動こうとする(そのために外国勢力との提携に動くことも稀ではない)。
これには清朝末期から中華人民共和国成立までの中国大陸における地方軍閥の乱立、オスマン帝国におけるムハンマド・アリーらの動き、ムガル朝におけるシク教国や藩王国の割拠といった例があるし、これら軍閥やムハンマド・アリー政権、シク教国や藩王国との欧米列強(中国大陸においては大日本帝国がこれに加わる)との複雑な離合集散は近現代史に興味のある向きにはお馴染みのものであろう。
日本列島においても、足利義満より後から羽柴秀吉による統一政権樹立までの中央の地方掌握力が殆ど存在しなかった時代を見ると、対馬や北九州、山陰に蟠踞した諸大名は明や李氏朝鮮と独自に通商(往々にして密貿易だったりするが・・・・)やそれに伴う外交交渉を繰り広げていたし、ポルトガルからの軍事援助を期待して長崎港とその周辺地をイエズス会に寄進した大村純忠といった例が存在したことは有名である。

ここで話を現代の琉球諸島に戻すと、現状で当該地域を押さえる日本国は国内経済の不調とそれを反映した税収減少傾向の中(特に所得税と法人税)、単純に考えれば中央から地方への余剰分配は拡大が望みにくい状況下にあり(注5)、まして防衛費の増強は未だ根強い反戦世論等の非経済要因もあってなおのこと考えにくい(注6)。他方、それとは対照的に、中華人民共和国は目覚ましい経済成長によって台湾を含めた周辺諸国を引きつける強力な磁場を形成しつつあり(注7)、更には積極的に空軍力の近代化・増強に努めている。

さて、上述の如き形勢が仮に長く続いた場合、前述のように日本にとって「柔らかい下腹部」であり続けてきた琉球諸島がどのような動きを見せるのだろうか? 琉球諸島が日本の領土となっている現状が無条件で永久に続くものだと思い込み続けている者は、これから先、思わぬところで足元をすくわれることになるのではないだろうか?

注釈
注1.ここでは「日本本土」と言った場合、北海道、本州、四国、九州とそれらに近接した諸島嶼を指す。
注2.もっとも、駐在武官としてスウェーデンに派遣されていた小野寺信少将は欧州に張り巡らせた諜報網によってヤルタ会談とその主な内容を掴んでいた。それは妻の百合子氏の手によって本国に打電されていたのだが、本国の側にはその内容を検討したという記録はおろか、受信したという記録すら存在しない。まさに現代史のミステリーとも言える出来事である。
注3.そんな彼らの期待はヤルタ会談を受けたソ連の対日参戦(1945年8月6日より開始)によって盛大に粉砕されてしまうのだが、それはまた別の話。
注4.種村大佐の提言がなされた1945年4月20日時点、既にソ連は日ソ中立条約について「情勢が締結当時と一変し・・・・日ソ中立条約の意義は失われた」として「翌年期限切れとなるが延長しない」旨を日側に通告していた(1945年4月5日)。
注5.とは言いつつ、地方交付税の推移を見ていくと、平成14年度(2002年度)には18兆3722億円であったものが、平成21年度に14兆8710億円にまで減少した後、平成22年度に15兆8797億円、平成23年度に16兆4191億円(「子ども手当の支給等に関する特別措置法」の成立を反映した再計算額)と上昇傾向にある。この傾向が日本国内の経済事情に照らし合わせて持続可能なものなのかは、著者の浅学もあって俄には判断し難い。
注6.日本の防衛費については、1997年度から2004年度までは4.9兆円台が継続してきたが、2005年度から減少傾向にあって2010年度以降は4.6兆円台が続いている。
注7.なお「JBIC台湾レポート2011年2・3月合併号」によると、中国は福建省平潭総合実験区を中軸として中台協力による経済開発、所謂「海西経済区計画」を推進している。現状、台湾側はインフラの整備状況や計画窓口が北京中央ではなく福建省であること等から参加に慎重姿勢を示しているが、他方、日本では沖縄県を中心に同計画との連携に期待する声が強まっているという。


参考資料
・鹿島守之助 「日本外交史第3巻 近隣諸国及び領土問題」 1970年5月 鹿島平和研究所
・参謀本部所蔵 「敗戦の記録」 1989年2月 原書房
・手嶋龍一 「ライオンと蜘蛛の巣」 2006年11月 幻冬舎
・小野寺百合子 「バルト海のほとりにて  武官の妻の大東亜戦争」 1985年12月 共同通信社
・総務省 ホームページ「地方交付税」
・長谷川毅 「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 2006年2月 中央公論新社
・国際協力銀行 「JBIC台湾レポート2011年2・3月合併号」 日本政策金融公庫
・防衛省 ホームページ「予算等の概要」