2012年2月4日土曜日

第四百四十一段 「熱海のさざ波、大洋を荒らす」のか?

「熱海」と書くと殆どの人が、日本の(あんまりよくない意味で)ひなびた温泉地を連想するかと思うが、当該段で取り上げるのはさに非ず。当該段の「熱海」とは、孫悟空を中心に諸々の妖怪・神仙が入り乱れて活躍する「西遊記」のモデルともなった玄奘三蔵法師の「大唐西域記」や幾つかの塞外詩によって記録され、現在はキルギス共和国のイシク・クルとして知られる湖のことである。

地図で確認すると一目瞭然だが、キルギスという国は東西南北、どちらに向かったとしても海からは遠く離れた内陸国である。そんな国の中にある熱海(イシク・クル)のさざ波が大洋を荒らすとは如何なることか?

まず熱海のさざ波から見ていこう。キルギスのイシク・クル沿岸ダスタンには、中央アジアで唯一のシクヴァル(VA-111)工場がある。シクヴァルとは「流体力学で説明される効果の一種で、物体や船体が高速の流体中を動くとき、その背後に水蒸気の泡が生じることによって起きる。物体が気泡に絶えず包まれると、表面の大部分が濡れないまま保たれる。この結果,水の粘性によって生じる摩擦抵抗が劇的に減り、速度を上げられる」スーパーキャビテーション現象を利用した魚雷のことで、従来の魚雷に比して極めて高速で動くことが可能とされている。米海軍が現在使用している各種魚雷と比較すると一層その速度の違いが引き立とう(もっとも、通常型魚雷と違ってシクヴァルの誘導能力は今だ開発途上とされている)。

・VA-111:200ノット(時速370km相当)
・Mk-46:40ノット(時速74km相当)
・Mk-48ADCAP:60ノット(時速111km相当)
・Mk-50:70ノット(時速130km相当)

ロシアは2008年に対キルギス債権と引換えに当該工場の経営権を取得したのだが、近年の経済成長とそれによる海外エネルギー資源への依存度の高まりを背景に海空軍の近代化を急ピッチで進めている印中両国もまた、当該工場に対して強い関心を示しているとされる。折も折、年間6000万ドルの使用料収入をキルギス政府にもたらしてきたマナス空軍基地の米軍使用期限が2013年いっぱいで切れることもあり、同国政府のダスタン工場の取扱が注目される(注1)。

次に大洋だが、視線を中央アジアから南下させれば、インド洋から東・南シナ海に至る広大な海域を舞台として覇権国米国と近年の急速な経済発展を背景に海空軍力の増強・近代化に勤しむ中国及びインドを中心に、日本やパキスタン、ASEAN諸国といった周辺国をも巻き込んだ激しいパワーゲームが展開されている(注2)(注3)(注4)。そのような状況下、もし仮にキルギスのシクヴァル工場が中国若しくはインドの手に渡ったとしたなら、そこの生産物は、インド洋~東・南シナ海海域のパワー・バランスをより不安定で熱を帯びたものに変えていくであろうことは想像に難くない。

つまり、中央アジア・キルギスにおけるシクヴァル工場の存在とそれに印中両国が寄せる関心、そして仮に印中どちらかが当該工場を手にした場合に予測されるインド洋~東・南シナ海におけるパワー・バランスの変化、これこそが「熱海のさざ波、大洋を荒らす」の謂いである

とりわけ、中国が当該工場を手にした場合、その中国との間で尖閣諸島や琉球諸島並びにその周辺海域の資源権益等を巡って火花を散らし、そして何より、海を通じて輸入された中東の石油、豪州の鉄鉱石や天然ガス、北米の農産物等を生存の基盤としている日本にとっては頭が痛いことになろう(注5)

注釈
注1.なお08年時点におけるキルギスの国民総所得は約41億ドル。
注2.2010年9月の「尖閣問題」は未だ記憶に新しい所だが、最近では日中両国間で係争中の「東シナ海ガス田」で中国側が開発を再開したとの報道がある。
注3.インド洋は兎も角、東・南シナ海では若干影の薄い感のあるインドだが、米国や日本と沖縄近海等で合同演習「マラバール」を開催している他、ベトナムを訪問したインド海軍の強襲揚陸艦Airavatが南シナ海において中国海軍を名乗る人物から無線で「領海侵犯」警告を受けると言った事案が発生している。
注4.最近はインド洋に浮かぶ島国セーシェルが、アデン湾一帯で対海賊作戦に従事する中国軍艦艇への補給基地提供を申し出て注目を浴びた。なおセーシェルは海賊やソマリアのイスラム過激派組織に対する米軍のUAV発進基地ともなっている。

注5.とは言いつつも、既に中国はロシアからVA-111を40発購入したとされている。

参考資料
・EURASIANET.org 「India To Use Torpedo Plant In Kyrgyzstan, But Where Are The Russians?」 2011年9月21日
・Financial Times 「China confronts Indian navy vessel」 2011年8月31日
・naval-technology.com 「India and US to Conduct Joint Naval Exercise」 2011年2月18日
・NHK 「東シナ海ガス田 中国が単独開発か」 2012年1月31日
・Today's Zaman 「US drone crashes at Seychelles airport」 2011年12月13日
・Wall Street Journal 「Chinese Military Considers New Indian Ocean Presence 」 2011年12月14日
・共同通信 「ロシア・東欧ファイル」 2011年8月31日
・共同通信 「ロシア・東欧ファイル」 2011年10月21日
・日経サイエンス編集部 日経サイエンス2001年8月号「謎の新兵器 超音速魚雷」 日本経済新聞出版社 2001年6月