2012年2月12日日曜日

第四百四十四段 「北虜南倭」の中国近現代史

「北虜南倭」という言葉を学生時代の授業等で耳にした、目にした方も多かろうと思われる。

要は、明王朝の時代、朝廷の頭痛のタネとなった、北方のモンゴル高原から首都北京や華北を脅かしたタタールやオイラートといった遊牧騎馬勢力(後にマンチュリアの女真族勢力「後金=清」が加わる)、そして九州やその周辺の島嶼部を拠点として江南沿海部を荒らした倭寇(注1)、という南北二大勢力を併称した言葉である。

だが、この「北の草原地帯からの脅威」と「南方海域からの脅威」は、ただ明朝の時代のみならず、後の清朝から現在の人民共和国の時代に至るまで、時の中華政権にとって切実な問題となり、その対外的な行動を規定してきた。

順を追って見ていくと次の通りである。

1.清王朝の時代
内モンゴルの遊牧勢力を征服又は懐柔して自身の勢力に取り込むことで軍事力を強化し、それを背景に中華本土を制圧した清王朝は、18世紀中頃、外モンゴルや新疆北部を拠点に強盛を誇っていたジュンガル部を苦闘の果てに討滅することで「北の患い」を取り除くことに成功する。そして「南の憂い」であった海上勢力もまた、16世紀から17世紀後半にかけて、清朝による台湾・鄭氏政権の撃破や日本列島をほぼ掌握下においた豊臣政権の「海賊停止令」や江戸幕府の鎖国政策によって勢いを失う(注2)。これによって清王朝は一旦、南北の患いに苦しめられることのない平穏を手にしたのである。
だが、19世紀になって清朝自体の力に衰えが目立ち始めた頃から俄に暗雲が立ち込めてくる。というのも、北方ではシベリアを支配下に置くロマノフ朝ロシアが新疆やモンゴル高原、マンチュリアへの勢力拡大を図り(注3)。また南方では蒸気船の威力を背景に欧米列強、そして明治維新によって近代国家への仲間入りを果たした大日本帝国が市場の開放と植民地を求めて押し寄せ、香港や広州、上海、台湾等をそれぞれ清王朝から切り取っていった。
この南北の新しい脅威に対して既に両面同時対処の余力を失っていた清王朝では、対応の優先順位を巡って「まずは南海から進出してきた勢力と結び、漠北から押し寄せる勢力を撃破すべき」とする塞防派と「まずは漠北の勢力と手を結んで、南海から押し寄せる勢力を追い払うべき」と主張する海防派との対立が生じ(注4)、それが更に外来勢力に付け入る隙を生むという悪循環にはまり込んでしまう。
結局、騎馬兵力と帆船からなる旧来の「南憂北患」を払い除けることには成功した清王朝であったが、産業革命を背景に火砲と蒸気船で武装した新たな「南憂北患」には抗し得ず、列強諸国によって半植民地化された挙句に1911年の辛亥革命で滅亡してしまった。

2.中華民国の時代
辛亥革命による清王朝滅亡後を受けて中華本土の新たな支配者となった中華民国政府ではあったが、政治体制が変わっても対外状況は従前とそう変わらず、外モンゴルや新疆はロマノフ朝及びソ連邦の、江南沿海部の主要都市や台湾は英仏日等諸列強の、それぞれ植民地・勢力圏に留め置かれ続けた。ただ、マンチュリアの支配権が、日露戦争やその後の革命によるロシア本国の混乱と相俟って大日本帝国の手に移ったのは唯一目立つ変化ではあった。

3.中華人民共和国の時代

第二次大戦における大日本帝国の敗北と滅亡、中華民国の疲弊を奇貨として急速な勢力拡大に成功した毛沢東率いる中国共産党は、1949年、蒋介石率いる中華民国政府を大陸から放逐し、北京天安門において中華人民共和国(以降、単に「中国」と記す)の成立を宣言した。この時の中国を取り巻く状況は、北に外モンゴルを押さえるソ連があり、南海には日本列島・琉球列島を占領下に置く米国の海空軍力とその後援を頼みに「大陸反攻」を唱える台湾の蒋介石政権が存在するというものであった。これに対して中国は、イデオロギー的な近さから、北と結んで南に備える道を選択する。これが毛沢東の「向ソ一辺倒」宣言及び中ソ友好同盟相互援助条約締結の背景である(注5)。
やがてイデオロギー問題に新疆や外モンゴルを巡る歴史的地政的対立が加わって1960年代に中ソ対立が発生・激化してくると、中国は一時的に南北両方に敵を抱える苦境に立たされるものの、今度は長らく「南憂」とみなしてきた米国やその同盟国たる日本との接触を開始し、彼らと結んで北に対抗する道を選択した。これが1972年のニクソン訪中及び日中国交回復の背景である(注6)。
更に時が流れ、北の脅威であったソ連が1991年に崩壊すると、中国はソ連邦時代に比して弱体化したロシアとは国境画定交渉を進めてこれを妥結させ(注7)、急速な経済発展によって近代化された軍事力を後顧の憂いなく南海に集中させられる状況を作り上げた。これが胡錦濤政権下で目立つようになってきた南シナ海における中国の強硬な振舞い、そして日中間で2010年に発生した「尖閣問題」の背景である(注8)。

以上の歴史的流れを踏まえて今後の中国の動向を予測するに、北患の立ち位置にあるロシアが既に中華人民共和国との間で国境画定を済ませていること、そしてその人口動態や資源頼みの不安定な経済・財政事情を考えると、中国自体に大きな変動がない限り、中国は今後も南海にその力を集中し続けていくと考えられる。

注釈
注1.「倭」と記されてはいるが、九州等の日本人の他、李氏朝鮮や江南の海民・海商を含む雑多な民族集団から形成された武装密貿易団というのがその実態に近いとされている。
注2.なお、豊臣政権は二度にわたる朝鮮侵攻で明王朝にも李氏朝鮮支援による多大な負担を強いており、明王朝側では豊臣政権の朝鮮侵攻を「倭寇の最大版」として捉えていたようである。
注3.ロマノフ朝ロシア及びソビエト連邦の新疆、外モンゴルにおける勢力扶植の動きについては、ピーター・ホップカークの著作「ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦」及び「東方に火をつけろ―レーニンの野望と大英帝国」がそれぞれ詳しい。
注4.海防派の最大有力者が日清戦争でも有名な李鴻章であり、彼が同戦争前後に追求した「ロマノフ朝の威を借りて大日本帝国を牽制する」という方策は、露清同盟やロシアも一枚加わった三国干渉という形である程度奏功している。
注5.なお朱健栄の「毛沢東の朝鮮戦争 中国が鴨緑江を渡るまで」によると、朝鮮戦争勃発時、毛沢東や周恩来といった中国政府指導部は米国による「三路向心迂回」、即ち、朝鮮半島、台湾、インドシナ(当時はフランス植民地)という三方向からの中国本土進攻を強く警戒していたという。
注6.ソ連を共通の敵とする中国と日米の接近については、ジェームズ・R・リリーの「チャイナハンズ―元駐中米国大使の回想 1916‐1991」やヘンリー・キッシンジャーの「ヘンリー・キッシンジャー激動の時代1 ブレジネフと毛沢東」、服部龍二の「日中国交正常化 田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦」等をそれぞれ参照のこと。

注7.中露間の国境画定の動きについては、岩下明裕の「中・ロ国境4000キロ」等が詳しい。
注8.「北と手を結んで南に打って出る」という中国の最近の動きは、まさに清朝末期において海防派が主張した戦略そのものである。なお現在の中国を率いる胡錦濤主席の本籍が奇しくも清朝における
海防派の領袖であった李鴻章と同じ安徽省だというのも、偶然なのだろうが面白い一致ではある。


参考資料
・ジェームズ・R・リリー 「チャイナハンズ―元駐中米国大使の回想 1916‐1991」 2006年3月 草思社 西倉一喜訳
・ピーター・ホップカーク 「ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦」 1992年5月 中央公論新社 京谷公雄訳
・ピーター・ホップカーク 「東方に火をつけろ―レーニンの野望と大英帝国」 1995年12月 NTT出版 京谷公雄訳
・ヘンリー・キッシンジャー 「ヘンリー・キッシンジャー激動の時代1 ブレジネフと毛沢東」 1986年2月 小学館
・岩下明裕 「中・ロ国境4000キロ」 2003年3月 角川書店
・岡本隆司 「李鴻章 -東アジアの近代」 2011年11月 岩波書店
・朱健栄 「毛沢東の朝鮮戦争 中国が鴨緑江を渡るまで」 2004年7月 岩波書店
・石橋崇雄 「大清帝国への道」 2011年9月 講談社
・服部龍二 「日中国交正常化 田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦」 2011年5月 中央公論新社