2012年4月19日木曜日

第四百五十七段 音速の遅い読書「インド対パキスタン」

今回の音速の遅い読書で取り上げるのは、以下の作品。



内容としては、表題が示す通り、印パ両国がどのような歴史的経緯を経て1998年に核実験をそれぞれ実施し、世界に衝撃を与えるに至ったかを次のような構成で論じたものである。

「カシミール問題などよりも、インドの存在そのものがわれわれに大変な恐怖を与えているという歴史的事実に注目してほしい」というパキスタン側関係者の言葉を引いて、そのパキスタンのインドに対する恐怖がどのようにして形成されてきたのかを扱う第一章と第二章。

インドが自身の核武装を正当化する際の論拠の一つとしてきた「中国の核の脅威」がどの程度まで妥当な見方なのかを、中国の核兵器保有状況とその運用思想を踏まえて検討した第三章。

印パ両国の核開発の歴史を扱った第四章と第五章。

核兵器開発の開始から核兵器保有国となるまでの過程をより技術的な側面に注目して説明する第六章と第七章。

前述の各章を踏まえた上で「何故、印パ両国は98年に核実験を行ったのか? その狙いは那辺にあるのか?」を論じた第八章。

最後の第九章では、印パへの核拡散の流れに大きく影を落とす米国等主要国の失敗とそれらが今後の事態改善に向けて今後何をし得るのかを扱っている。

そんな本書の中で個人的に興味深かったものが二つある。

まず第二章で紹介されている元パキスタン陸軍参謀長ミルザ・アスラム・ベグ将軍の「汎イスラム同盟」構想である。本書によればその骨子は次のようになっている。
①パキスタンがインドに対抗するには「戦略的縦深性」を持たねばならない。
②そのためには、イランをはじめとするアフガニスタン、イラク、トルコ、さらにはウズベキスタン、カザフスタンなどの旧ソ連中央アジア諸国のイスラム圏(以上は、かつてのムガール帝国の版図)との間で、イスラム教を共通基盤とした戦略的連携、「汎イスラム同盟」を結成すべきだ。
③米国の”善意”を当てにした従来の”対米従属外交”から脱し、核兵器保有を公然と宣言することによって、対等な対米関係に修正すべきだ。
④中国が米国に代わって通常兵器、ハイテク兵器の供給国として期待できる。

当該構想については「西側諸国との関係悪化」を中心的な理由とする慎重論も紹介されているのだが、本書出版から10年以上が経過した今、パキスタン外交の軸足は徐々にではあっても、この路線に近づいているように見える(注1)

次に印象に残ったのが、インドの核開発の歴史を扱った第四章である。そこでは当初平和利用から始まり、一時は「原子力平和利用の世界的見本」とも目されていたインドが、1962年の中印国境紛争敗北とその2年後に行われた中国の核実験に触発され、「核兵器は現に保有していないが、いざという時に備えて核兵器保有の選択肢と製造能力は維持しておく」というオプション・オープン政策を採用して74年の「平和目的の核爆発」実験を行うまでの過程、そして、こうしたインドの動きに無制限な核拡散の恐怖を覚えた米英ソによるNPT成立とそれに対するインドの強烈な反発(政府レベルのみならず、国民世論レベルでも(注2))が語られている。なお当該章では、核兵器開発に向けたインド首脳の発言が幾つか紹介されている。以下に引用するが、固有名詞を若干交換するだけで「某国首脳の今日の発言」と紹介されても全く違和感を感じさせないものになるのが面白い。
ジャワハルラール・ネルー(後のインド初代首相 1946年6月ボンベイでの演説会にて)
わたしはわが国の科学者が原子力を建設的目的に使用することを願うものだ。しかし、万一インドが脅威にさらされれば、可能なすべての手段を使って防衛に立ち上がるだろう。

インディラ・ガンジー(当時首相 1974年7月インド議会にて)
核実験に使われたすべての物質、装置と、このプロジェクトに携わった人員はすべてインド自身のものだった。

インドの核実験はいかなる国際法も、いかなる国家との間の義務や約束をも破ったものではない。

原爆の技術そのものが悪魔性を帯びているのではなく、その技術を使う国の意思によってその性格が決まるのであり、インドはこの技術に関するアパルトヘイト的原則には例外なしに反対する。

本書は初版が98年8月ということもあり、各国のミサイルの保持数や兵力といった個々の数字については読み手側で各自アップデートした上で読み進めていく必要があることはいうまでもない。しかし、印パや中国が核兵器を中心とした安全保障戦略が如何なる状況によって形成され、今後どのような展開を見せるのか?、という問い掛けに対して筆者が提示・紹介する分析や事例は些かも今日性を失っていない。恐らくそれは、あとがきの締めくくり(以下に引用)で端的に述べられている大局観の賜物なのだろう。
最後に、インド、パキスタンそして中国の政府関係者、研究者、知識人、軍関係者と直接話し合って感じたことは、いずれの国も長い長い西欧諸国による支配・植民地の屈辱を受けた歴史を持っているということだった。黄河文明しかり、インダス文明しかり。四〇〇〇年以上にわたる高度な文明国として世界をリードしてきた誇り高き民族心が、被支配・植民地による屈辱感とないまぜになり、米欧がリードする国際社会に対する挑戦的態度となって噴出する場面に何度も出くわした。二〇世紀半ばの第二次世界大戦をきっかけに長い被支配の歴史からようやく解き放たれたこれらアジアの大国、誇り高き民族はいま、内部からあふれ出る熱い思いに突き動かされて、長い屈辱の歴史を埋め合わせる過程に入ったのかもしれない。そのような大きな歴史の流れを感じられずにはいられなかった。

このあとがきが記されてから10年以上を経過した現在、印パに限らず世界各地で「長い屈辱の歴史を埋め合わせ」ようと誇り高き諸民族が復興・復権の道程を鼻息荒く邁進している。そしてその到達点若しくはマイルストーンとして彼らの心を掴んでいるものの一つに核兵器がある構図に変化はない。他方、良くも悪くも国際社会をリードしている西側諸国の人々が、幸運にも被支配・植民地といった不幸な歴史を経験せずに済んできたこともあって、こうした諸民族の「内部からあふれ出る熱い思い」を読み切れずに寧ろ翻弄すらされている構図にも変化はない(注3)。難儀な時代はまだ当分続きそうである・・・・

注釈
注1.③については国家レベルの連携というよりも、アフガン・タリバンやカシミールにおけるイスラム武装勢力、そして間接的なものではあったとしてもアル・カイーダ等の国際テロ組織といった非国家主体との連携強化という形で実現しつつあるように見える。また④についても中国のパキスタンにおける原発建設、そして中パ両国によるJF-17戦闘機の共同開発といった具合に具体化している。
注2.インドの74年核実験直前期の核開発に対する国民世論について、本書は次のように述べている。
六六年から七〇年にかけてインドの国立世論研究所が継続的に実施した世論調査では、インド国民の七三パーセントが「核兵器開発に賛成」と答え、七一年調査では八〇パーセントが「原爆開発に賛成で、そのためには寄付ないし税金の追加徴収にも応じる」と答えている。また、六八年に実施された別の世論調査でも、「原爆開発に賛成」と答えたインド国民は七九パーセントに達した。

注3.この辺り、本書が第九章に載せている、CIAが98年印パ核実験を察知できなかったことに対する特別調査委員会に参加した米ジェレマイヤー提督(退役)の発言(以下に掲載)が重い(発言内の赤太字化は当ブログ著者による)。
インドが核実験をやるはずがないという誤った思い込みによって、偵察衛星担当者がインド上空に注意を向けていなかった。米国はインド国民が持っている『民族のプライドと魂』の強さを、まったく理解できていなかった。

2012年4月15日日曜日

第四百五十六段 音速の遅い読書「オリエンタル・デスポティズム」

今回の音速の遅い読書で取り上げるのは、以下の作品。



書名ともなっている「オリエンタル・デスポティズム(Oriental despotism)」、和訳すると「東洋的専制主義」という言葉、なかなか耳慣れないものではあるが、要は、東は北京から西はモスクワ、イスタンブールに至る広い地域で歴史上観察される、一人の絶対的主権者(地域によって「皇帝」と呼ばれたり、「スルタン」と呼ばれたり、「ツァーリ」と呼ばれたり・・・・)とそれを支える巨大な官僚組織から構成された中央集権型の支配体制のことを指している。

本書は、その「東洋的専制主義」がどのようにして成立、展開し、地域によっては現存する国家の在り様に多大な影響を与えてきたかについて、ドイツ生まれの米国人中国研究家カール・ウィットフォーゲルが自身の研究を集大成したものである(原書自体の初版は1957年、初の邦訳出版は1961年)。

そんな本書の中から、個人的に強く興味をひかれたテーマを以下に列挙する。

1.「東洋的専制主義」の成立
著者ウィットフォーゲルが「東洋的専制主義」の揺籃として注目したのは、土地自体は肥沃なものの気候的に雨にあまり恵まれない、しかし近くを大河が貫流しているという地域であった。そうした地域では大規模な灌漑工事を実施することで豊かな農業生産を実現することができる一方、大河の氾濫を抑制するために灌漑工事に負けず劣らず大規模な治水工事が生存上どうしても不可欠となってくる。
だが、重機を始めとした各種テクノロジーといった要素が未成熟若しくは全く存在しない前近代の世界にあって大規模な灌漑工事や治水工事を成功させるには、大量の労働力を徴収し、それをいつ、どこに投入するかを決定し、現場では労働者たちを食わせ、一糸乱れずに築堤等の働きをするよう管理していかねばならない。
この必要性にこたえるため、土地自体は肥沃なものの気候的に雨にあまり恵まれない、しかし近くを大河が貫流しているという地域では、早くから支配領域の労働力や食糧生産を把握・管理するための中央官僚群を要した国家が発達し、やがて、より大規模で複雑な統治機構を擁する「東洋的専制主義」国家へと発展していったのである。
本書50~51ページより抜粋(注及び中略、太赤字化は当ブログ著者による)
部族的水準を超えると、水力的活動(注:ここでは「水力=灌漑・治水」と捉えて頂きたい)は通常は広範なものとなる。水力農業の協業的側面に言及する大部分の記述者は、主に掘削、浚渫・築堤について考えている。これらの労働に含まれている組織的課題がいちじるしいものであることは確かである。大きな水力的事業の計画者が直面する問題はもっともっと複雑な種類のものである。何人ぐらいの人間が必要か。こうした人間はどこに見出すことができるか。以前作られた計画にもとづいて、計画者たちは割当てと選択の基準を決定しなければならない。選択に通告が続き、通告に動員が続く。集められた集団はしばしば軍隊を思わせる隊列をくんで行進した。目的地に到達するや水力的軍隊の二等兵たちは適当な数で、慣習的になっている分業(掘り込み、泥の運搬等々)にしたがって配分されなければならない。わら、まき、木材、石材といった材料が獲得されなければならないばあいは、それ以外の補助的な作業が組織される。もし作業集団が―全体としてか、一部としてか―食料と飲料が供給されなければならないばあいは、さらに他の調達、運搬、分配の手段が活用されなければならない。その最も単純な形態においても、農業水力的作業は相当な統括的活動を必要とする。そのより手の込んだヴァリエイションにおいては、それは広範で複雑な組織的計画を伴うのである。
・・・・(中略)・・・・・
こうした事業の効果的運営はその国の人口全部、あるいは少なくともダイナミックな中心部を包摂する組織網を伴う。したがって、このネットワークを管理する者が最高の権力をふるう絶好の用意ができているのである。


2.「東洋的専制主義」の特徴

では、「1」で見た灌漑農業・治水事業の全体的統括者として登場、発展した「東洋的専制主義」国家は、強大な中央官僚群の具備以外にどのような特徴を有しているのだろうか。本書が幾つか指摘する特徴のうち、個人的により重要性の高いと思われるのが、「国家権力を牽制する外部勢力の不在」と「脆弱な私的財産権」である。
レーニンはプロレタリアート独裁を「いかなる法律によっても制約されぬ権力」と定義したが、その際に彼が念頭に置いていたであろう「法律が権力を制約する」西欧諸国政府の在り方というのは、自身の権力と財力を強めようとする王政府とそれが逆に自身の権力や財産の縮小に結びつくことを恐れた封建諸侯、ローマ教皇を頂点とする教会、そして職人たちのギルドや都市を支配する大商人団との対立・衝突・相克、そして妥協の歴史の中で育まれてきたものであった(注1)。
しかし、大規模な水力事業の必要性から中央政府が支配領域の経済状態や労働力の分布情報並びに徴収権限を独占し、支配下にある側でも政府の統制下で行われる灌漑・治水事業の便益なしでは生存も覚束ない状態の長かった「東洋的専制主義」国家では、遂に西欧における封建諸侯や教会等に該当するような国家権力に対する牽制勢力は生まれず、文字通り「いかなる法律によっても制約されぬ権力」の支配が続いたのである(注2)。この状態をウィットフォーゲルは「社会よりも強力な国家」という言葉で表現した。
そして、こうした国家の下で民衆や非国家組織に認められる財産権は、正規の徴税・徴収は無論のこと、様々な政治的告発に伴う没収の危険性に常に晒された極めて脆弱なものとならざるを得なかったと論じている(注3)。

本書109ページより抜粋(注及び太赤字化は当ブログ著者による)
ヨーロッパ絶対主義の支配者も彼らの東洋の仲間と同様に残忍に陰謀をくわだて、無慈悲に人を殺した。しかし、彼らの迫害、収奪の力は土地所有貴族、教会といった、その自律性を独裁的君主が制約することはできたが、破壊することができなかった勢力によって制約されていたのである。それに加えて、この新しい中央集権的政府は動産の新しく勃興しつつある新しい資本家的形態を発展させることに決定的な利益を見出したのである。水力的方法では決して管理したり、搾取したりすることはできない農業秩序から生まれた西洋の独裁者たちは、進んで生まれたばかりの商工業資本家を保護したのであり、今度は資本家たちのますますの繁栄はその保護者たちの利益となったのである。
これと対照的に、水力社会(注:要は灌漑・治水を統括する中央政府が無制約の権力を振るう「東洋的専制主義」社会のこと)の支配者は彼らの国の農業経済の上に確固たる徴税の網を広げた。彼らは封建以後の西洋の支配者とちがって、都市資本家を育成する必要を感じなかった。最善のばあいでも、彼らは資本家企業を有利な果樹園のように取扱い、最悪のばあいには、資本制企業の茂みを刈りこみ、はぎとって、丸裸にしてしまった。

3.「東洋的専制主義」の伝播

「1」で見たように大規模な灌漑・治水事業の必要性の中から産声を上げた「東洋的専制主義」国家だが、歴史を振り返ると必ずしも灌漑・治水事業を必要とはしない地域でもその範疇に属する政治体制の国家を目にすることができる。例えばロシアのモスクワ大公国(後にはロマノフ朝)やギリシャ・アナトリアのビザンツ帝国やオスマン朝である。また西欧や日本列島のように「東洋的専制主義」国家がついぞ成立しなかった地域もある。
こうした事態を説明するのにウィットフォーゲルが用意したのが、中心と周辺、亜周辺という概念である。まず「中心」だが、これは黄河流域やメソポタミア、ナイル川下流域等のような「東洋的専制主義」の発祥地たる大規模灌漑農業地帯を指す。次に「周辺」だが、これは朝鮮半島やアナトリア・ギリシャ、ロシアといった中心に隣接してそこで発生した「東洋的専制主義」を受容した地域を指す。最後の「亜周辺」は中心や周辺との地理的距離や気候の違い(最大の相違点は灌漑に頼らずとも済むだけの雨水に恵まれているという点である)から「東洋的専制主義」が成立し得なかった西欧や日本列島等を指した。
そして、中心で成立した「東洋的専制主義」が周辺にもたらされる契機としてウィットフォーゲルは遊牧騎馬民族による征服活動を重視した。つまり、中心を征服した遊牧騎馬民族は大規模灌漑・治水事業の必要性から地域全土に徴収と情報の網を伸ばす「東洋的専制主義」を効率的な支配の道具として使用し続け、更に新たな征服地とした周辺においてもこれを適用したのである。そして遊牧騎馬民族という波が引いた後でも、中心は勿論のこと、周辺でも「東洋的専制主義」による支配の効率性を知ってしまった以上はこれを放棄することができなくなってしまうのである。
本書248ページより抜粋(注及び太赤字化は当ブログ著者による)
征服者は彼ら自身としては非水力的形態においてすら、意味ある程度まで農業を実践しているわけではないが、水力的国家(注:「東洋的専制主義」国家のこと)運営の組織的、収取的方法を使用し、伝播させる。遊牧民である彼らは主要な水力的地域の政治的、文化的境界をこえて遠くこれらの方法を運搬する

4.亜周辺としての西欧及び日本
「2」や「3」でも触れたように、無制約の権力を一元的に行使する中央政府を擁する「東方的専制主義」社会と異なり、様々な利害集団と中央政府とが権力を巡る相互に勝ったり負けたりの綱引きを繰り返す多元的分散的な権力分布が定着したのが西欧であった。それが可能となった要因についてウィットフォーゲルは、西欧が地理的に灌漑農業地帯たるナイル川下流域やメソポタミアから隔たっていたこと、豊かな土壌と雨水が中央政府に依存しない生存や富の獲得・蓄積を可能としたこと、以上の2点を挙げている。
この西欧の事情とある程度似た位置にあるのが日本列島である。そこでもやはり豊かな土壌と雨水が中央政府の統制と支配に依存しない生存を可能にし、西欧の封建諸侯に似た武士団の登場と各地での割拠をもたらした。一方で日本列島の諸勢力は隣接する中国大陸から長年にわたって多大な政治的文化的影響を受け続け、成功はしなかったものの、奈良時代から平安時代前期にかけては律令制に基づいたミニ中華帝国とも言うべき体制の構築を目指した努力が行われた。そして17世紀に成立した幕藩体制は、譜代大名や旗本からなる一大官僚組織江戸幕府が経済的軍事的要地を押さえる一方で各地に「藩」という形の封建諸侯割拠も認めるという日本土着の制度と「東洋的専制主義」国家制度の合いの子とも言うべき存在となった。こうした土着の分権的制度を維持しつつ中国大陸の「東洋的専制主義」国家からも看過しえない影響を受けてきた日本の在り方を、ウィットフォーゲルは「伝統的日本は西欧封建主義よりもずっと湿度の高い脚で立っていたのである」と表現している(注4)。

以上に挙げたトピックの他にも、東は北京から西はモスクワ、イスタンブールの辺りに至る広い地域で観察される膨大な官僚群を擁した中央集権国家の生成と展開等について鋭い考察・分析のメスを入れたウィットフォーゲルではあったが、彼の業績は長年日陰に置かれ続けてきた。
その要因としては「東洋的専制主義」国家生成の過程や各地域のそれがどこまで共通性を持った存在なのか、という点に対する実証主義的立場からの反論が強かったことも一つあったが(注5)、より大きかったのは以下の二つの指摘がマルクス主義に心酔しその普遍性と進歩性を些かの疑念もなく確信していた多くの知識人(先進国、途上国の別なく)からの憎悪を買ったことであった。

指摘1.西欧とは異なった環境的歴史的基礎の上で展開した中国等の「東方的専制主義」社会は、マルクスが西欧を観察・分析した上で提唱した『古代奴隷制→封建制→ブルジョワ民主制→社会主義』という発展段階説には適合せず、寧ろ西欧とは違った政治経済体制の下で生き続けるのではないか(そう考えると、中国やロシア等「東洋的専制主義」の下で生きてきた地域は結局西欧とは同じ政治経済体制にはならないのだし、ブルジョワ民主主義の成立とそこからの社会主義への移行も起こることはなくなるので、各国社会主義政権の支配の正当性にも大きな疑問符がつけられることになってしまう)

指摘2.ソ連や中華人民共和国で観察される共産党独裁政権は、人類の進歩を先導する前衛勢力どころか、前近代において観察される専制支配体制の焼き直しに過ぎないのではないか(注6)

だが、1980年代からの中華人民共和国の「改革開放」や1991年のソ連崩壊等を踏まえた21世紀初頭の世界に生きる自分の目からすると、もっと言うと、西欧や米国、日本といった「民主主義+市場経済」で生きる国々(所謂「西側諸国」)から経済制度やテクノロジーを選択的に導入して経済的に多大な成功を収めながらも、政治制度やそれに係る価値観、運営の在り方については西側諸国のそれと殆ど収斂する気配を見せずに生き続けている今日の中華人民共和国やロシアを目の当たりにしている自分の目からすると、ウィットフォーゲルが本書で示した分析や指摘はかなり腑に落ちるのである。

そして本書の読後に思ったのだが、もし仮に西欧や日本と違って立憲主義や議会主義、強い私有権といった分権的諸制度を生みだすような歴史的要因を悉く欠く中華人民共和国やロシアにおいて、今後、テクノロジーの発展による情報の波に影響された形で西側的な分権的諸制度のより広範な導入を求める動きが高揚した場合、その最終的な結果の不透明さは勿論、そこに至るまでの過程が長引き、かつ当該地域に大きな混乱・変動がもたらされることは想像に難くない。
さて、斯くの如き不幸な予測が実現してしまった場合、我々が日々便益を得ている経済や安全保障の体制は、こうした動乱を「民主化に向けた試行錯誤の一環」として鷹揚に受け止められるだけの余裕や堅牢性を示し得るのだろうか?


注釈
注1.そして現在、この西欧の歴史に根差した制度は、欧米諸国の経済的軍事的成功体験への憧れ、更にはそれによる軍事占領或いは植民地化の結果として、西欧とは異なった歴史展開を歩んだ地域にも広く輸出され、これまた様々な悲喜劇を今日に至るまで生み続けている。その中で、今自分が住んでいる日本国が”輸入国”として大きく成功した存在であることは大きな幸いである。
注2.本質的に「いかなる法律によっても制約されぬ権力」であった「東洋的専制主義」国家ではあったが、ウィットフォーゲルが「行政収益逓減の法則」という言葉を使って説明したように、中央政府の支配への脅威度と取締りに伴う財政的技術的負担との兼ね合いから民衆や非国家組織に自由・自治が認められる余地は存在した。しかし、それは中央政府の意向一つでどうなるかわからない砂上の楼閣的な存在でもあった。
注3.このあたりの事情が、津上俊哉氏が著書「岐路に立つ中国―超大国を待つ7つの壁」で取り上げた、「国退民進」から「国進民退」への移行の遅れ、即ち、市場経済化を進めた筈の現代中国経済において、民間企業ではなく中国共産党の支配下にある政府や国有企業が審判役兼プレイヤーとして大きな経済的影響力を維持または拡大させているという問題の背景というか基底にあるような気がする。
注4.日本の歴史を土着の分権的勢力と中国大陸に影響を受けた中央集権的勢力のせめぎ合いとして見る見方は、與那覇潤氏が著作「中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史」で示した見方とも共通している。
注5.もっとも、全ての実証主義的立場からの研究が彼の議論を否定するものであったわけではなく、彼の議論を裏付け、または補完するものもあったことは言うまでもない。
注6.ロシア革命後に成立したソビエト政権においてレーニンが政治や経済における中央集権・統制を推進した際にブハーリンがそれに対して「アジア的専制の復古」をもたらす危険性を指摘しているが、その指摘が受け入れられることはなかった。そしてブハーリン自身もレーニン死後の権力闘争の中でスターリンによって敗死の憂き目に遭ったことは有名である。
なお本書の著者ウィットフォーゲルは、未だその身をドイツに置いていた1920年代前半にゾルゲと親交を結んでいた。そのゾルゲが前述のブハーリンに心酔し、後年大日本帝国首都東京からモスクワに向けて第一級のインテリジェンスを送るものの、スターリンからは「ブハーリン派残党の一人として」不信の目で見られたことでそれらがソ連の政策に上手く生かされず、ゾルゲ自身も大日本帝国官憲に摘発、死刑に処せられてしまう(所謂「ゾルゲ事件」)という一連の流れを見ると、何かしら歴史の奇縁というものを感じてしまう。


参考資料
・G・L・ウルメン 「評伝ウィットフォーゲル」 1995年1月 新評論 亀井兎夢訳