2012年5月30日水曜日

第四百六十段 ウクライナ外交を一皮むくとクリミア・ハン国が出てくる

ウクライナという国がある。地理的にはEUとロシアの境界地帯にあり、CIS諸国の中ではロシアに次ぐ人口や国民総所得を有し、鉄鉱石や石炭に恵まれていることを背景に重化学工業が早くから発展してきた他、肥沃な黒土地帯もあって農業も盛んという国である。
そんなかの国の外交政策は、親欧米と親露のせめぎ合いという形で一般に報じられ、その背景としては、前述の地理的配置と共に、かつてポーランド・リトアニアやオーストリアの支配下にあった歴史から親西側志向を有する西部地域とモスクワとの親露志向を有する東部地域との地域対立が語られる。

だがしかし、東部地域を主要な支持基盤とするヤヌコヴィッチ現政権や過去のクチマ政権もまた、広く報じられた「親露派」という見方にはそぐわず、エネルギーや安全保障等の諸分野でEUやNATO、米国との協力関係を維持又は強化している一方、ガス価格等やガス・パイプライン敷設等といった従来からウクライナ-ロシア間で対立が生じがちであった問題でも決して唯々諾々とロシアの”指示”に従っているわけでもない(注1)。
流石に欧米のNGOの強い支援を受けた政変劇(所謂「オレンジ革命」)で権力を掌握したユシチェンコ前政権ほど欧米一辺倒な外交姿勢ではないが、「親露派」というレッテルから一般に想像されがちな「ロシアと手を結んで欧米と対立」という姿とはかなりかけ離れた位置にある(あった)のがヤヌコヴィッチ現政権や過去のクチマ政権なのである。

このようなウクライナの外交姿勢を見ると、同国の外交スタンスについて一般に語られがちな「西と東の対立」というファクターはあまり重要性を有しないのではないか。寧ろウクライナ外交の骨格を掴みたいのならば、普段注目を集めないクリミア半島を中心とした南部地域の歴史に目を向ける必要があるのではないかと考えられる。

ではウクライナ南部地域は如何なる歴史を歩んできた地域なのかというと、そこはポーランド・リトアニアやオーストリアに属した西部地域ともモスクワ政権の影響力が強かった東部地域とも大きく異なり、モンゴルの英雄チンギス・ハンの長子ジョチの子孫を王家として頂くモンゴル帝国の後裔国家の一つであり、隣接する中東や中央アジアの影響でイスラム教やトルコ系文化が栄えたクリミア・ハン国によって18世紀後半まで統治されていた地域であった(注2)。

そのクリミア・ハン国は、黒海を挟んで対岸のアナトリア・バルカンを押さえるオスマン朝と結び(注3)、東のモスクワ大公国(後にロマノフ朝)とはウクライナ草原とボルガ川下流域の支配をかけて争い(注4)、西のポーランド・リトアニアとはモスクワ大公国を牽制するため同盟を結ぶという一種の「遠交近攻」外交を展開することで、往時の東欧国際政治における有力プレーヤーの一角を占め続けた
だが18世紀後半になり、競争相手たるモスクワの強大化と提携相手であったポーランド・リトアニアやオスマン帝国の弱体化によってこの「遠交近攻策」が通用しなくなると、クリミア・ハン国はその独立を失ってロマノフ朝ロシアの支配下に組み込まれたのである。

以上の「クリミア・ハン国が展開した外交と現在のヤヌコヴィッチ現政権の外交――「親露派」とされる割にはロシア一辺倒ではなく寧ろ安全保障やエネルギーといった国の独立に大きな影響を及ぼす分野では米国やNATO、EU、更にはトルコやアゼルバイジャンとの協力関係強化に積極的――を見比べた時に気付かされる両者の相似は、「西や南の勢力と結んでモスクワに対抗する」ことこそが現在ウクライナと呼ばれている地域に位置する国家が独立を維持していく上で奏でなければならない主旋律であり、「親露か否か」というのはその中でのささやかな揺らぎ、アドリブに過ぎないことを物語っているのではないか。





そして西や南との連携が効果を失うと同時に独立をも失ったクリミア・ハン国の末路は、米国やEU等からの支援・協力を失うことがウクライナという国家において何を意味するのかを黙示するものだと言えよう。

注釈
注1.寧ろクチマ政権時代を見れば、ウクライナ自身がEUや米国にすり寄ったにもかかわらず、西側的価値観に必ずしも一致しない当該政権の在り様をEUや米国の側が「強権的支配」「腐敗」といった言葉で非難してはねつけ、かの国をロシア側に走らせてしまったという事例も珍しくなかった。また、ヤヌコヴィッチ政権も2010年9月にブリュッセルを訪問して将来的なEU加盟の可能性も含めた協議をEU当局と行っている他、11月にNATOが地中海で展開中の「対テロ作戦」に自国海軍を参加を決定し(ロシアは7月に当該作戦への協力を中止していた)、一方でロシアとの国境線問題では自国国益を損なってまで国境画定に進む意思はないことを表明している。
注2.なおクリミア半島を中心としたクリミア・ハン国の領域がロシア(ロマノフ朝)の支配下に組み込まれたのは1783年からである。世界史で言えばジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国初代大統領就任やフランス革命勃発があるあたり、日本史で言えば田沼意次が失脚して松平定信による寛政の改革が行われるあたりである。
注3.クリミア・ハン国は15世紀後半の王位を巡る内紛がもとでメフメト2世率いるオスマン帝国の従属下に入ったが、この従属はかなり名目的なもので、1502年に宗家ともいうべきジョチ・ウルスの都サライを陥落させてこれを滅亡に追い込み、ポーランド・リトアニアとモスクワ大公国が戦ったリヴォニア戦争では前者に与して1571年にモスクワを焼き払うといった具合に、クリミア・ハン国は依然として当時の東欧国際政治における独自の有力勢力であり続けた。なお15世紀後半クリミア・ハン国君主のメングリ・ギレイは自身の娘をオスマン帝国君主セリム一世の後宮に入れる一方、セリム一世の娘を息子サーデトの嫁に迎えるという通婚策をとっている。
注4.13世紀以来ロシアから中央アジア北部に至る広い領域を支配してきたジョチ・ウルスであったが、15世紀に入ると衰亡が愈々以て明らかとなり、従来の支配地は群雄割拠の様相を呈していく。
その中からクリミア・ハン国とモスクワ大公国がいわば二強として台頭し、両者はカザンやアストラハンといった他の割拠勢力に対する支配を巡って激しく対立することとなる。
注5.ウクライナ政府の対南外交ともいうべき動きとして最近報じられたものには、Strategic Defence Intelligenceの2012年3月14日「Ukraine, Turkey eyeing joint tank development with Azerbaijan」やNatural Gas Europeの2012年5月16日「Ukraine May Seek Interest in TANAP」等がある。

参考資料
・Natural Gas Europe 「Ukraine May Seek Interest in TANAP」 2012年5月16日
・NHK取材班 「大モンゴル3 大いなる都 巨大国家の遺産」 1992年9月 角川書店
・RIA Novosti 「Ukraine not to demarcate border with Russia at expense of national interests」 2010年8月26日
・同上 「Yanukovych to discuss Ukraine's EU entry bid in Brussels」 2010年9月6日
・同上 「Ukrainian warship joins NATO anti-terror operation in Mediterranean」 2010年11月7日
・Strategic Defence Intelligence 「Ukraine, Turkey eyeing joint tank development with Azerbaijan」 2012年3月14日
・W・E・D・アレン 「16世紀世界史におけるトルコ勢力の諸問題」 2011年8月 あるむ 尾高晋己訳

改訂
・2013年5月23日、地図が小さいのでよりサイズの大きいものに差し替え。