2012年7月8日日曜日

第四百六十四段 引退と政権交代

各国の選挙情勢を見ていると、国政選挙で「×××候補(若しくは×××党)が選挙で勝利しました」という発表がその国の選挙管理委員会等から発表された場合、日本や西欧、北米ではその結果が粛々と受け入れられ、結果によっては政権交代に向けた手続きが進んでいく。
対して、アフリカや中東、旧ソ連圏等々の国では、×××候補(若しくは×××党)とは競争関係にあった○○○候補(若しくは○○○党)から「選挙結果は不正なものであり、これを受け入れることはできない」という声明が出されて国内情勢が不穏化、双方の支持者が衝突し、結局どちらの組織が暴力面で強いのか、或いは軍や警察といった国家の実力機関の支持を得ているのかで事態の帰趨が定まるということが珍しくない。

この両者を分ける分水嶺について、昔から漠とした関心を抱いていたのだが、最近、「その答えは”引退”という生き方が権力者に許されていたか否かにあるのではないか」という気がしている。

どういうことかというと、まず、「権力者の生涯」と言った時、単純に、絶大な権勢を保持し続けて栄光に包まれたまま生涯を終えるか、さもなくば権力闘争での敗北後零落したり処刑されて終わるか、の二者択一的な、まさに「Power or Die」的なイメージを抱いてしまうが、それは地球上の多くの地域の多くの時代において単なる印象論を超えた事実であった。
だが、ざっと日本の歴史や中世以後の西欧の歴史をおさらいしてみるならば、そこでは権力者にとって「Power or Die」とは別の「第三の道」が存在していたことに気付かされるだろう。それが「引退」である。そこでは、元権力者はそれなりの財産や名誉を保持したまま、仏門や修道院に入る等して政治の表舞台から去り、現権力者の方でも、元権勢者が反乱を企てるといった特殊な事態を除けば、元権勢者の生命や財産を侵害することはなかった。
つまり、世界を大まかに二分すると、日本や西欧のように元権力者が権力という強大な力を手放しても身の安全や(ある程度の)生活水準は享受できる慣習が存在し続けてきた地域と、権力を一旦失えば後は身の破滅しかない地域に分けることができるのだ。

ここで話を冒頭の選挙の話に戻すと、日本や西欧、そして西欧からの多大な影響下で成立・発展してきた北米で「誰が権力を握るのか?」を決定する選挙結果が大きな社会動乱を引き起こすことなく受容されるのは、「引退」という慣習等によって「権力の喪失が身の安全・財産の喪失までを意味するわけではない」という一種の安心感が権力者層を含めた社会全般に広く根付いているからであり、逆に「引退」という慣習がなく「権力の喪失=身の安全・財産の喪失」という時代が長く続いてきた社会・地域に成立した国家では、権力者交代をもたらしかねない選挙やその結果発表は、対立する候補・陣営間での「生存を賭けた闘争」開幕の号砲にしかならない(そして勝った方が敗者を徹底的に弾圧する)、というのが現時点での自分の見立てなのである。