2012年8月10日金曜日

第四百六十六段 インドの雨不足で中東が荒れるかもしれない

北米、黒海沿岸部、カザフスタンといった北半球における大規模穀倉地帯で降雨不足が続き、コムギやトウモロコシといった各種穀物の生育に深刻な懸念が発生している今日この頃、インドでモンスーン到来遅延による雨不足が発生し、同様に農作物への影響が懸念されている。特にインドは米国やロシア等といった国々に比較して労働人口やGDPに占める農業の役割が大きく、干天による不作が景気に与える影響も一段と深刻なものとならざるを得ず、そのことを憂慮する声も当然あがっている。
だが、もし降雨量不足がインド農業に大きなダメージを与えることになった場合、その影響はインド一国に止まらず他の地域に及びかねないことはあまり語られない。
その「他の地域」に該当するのが、経済的にも安全保障的にも日本とは全く縁遠い国・地域ならばそれでも全く問題はないのだが、実はさにあらず、、寧ろ我々の住む日本以下多くの国々とって重要なエネルギー供給源となっている中東、湾岸地域だというのがなかなかに厄介な所だといえよう。

そもそもインドと中東湾岸地域との経済的繋がりを確認してみると、インドが原油・天然ガスの多くをサウジやUAEといった湾岸諸国やイランからの輸入に負っていることはイラン核開発問題における諸般の報道の中でも度々触れられてきた所だが(注1)、同時に、インドは湾岸諸国やイランに対するコメやコムギ等農産物の主要輸出国でもあるのだ(注2)。つまり大雑把にいって、インドと湾岸地域との間にはアラビア海を挟んで以下のような物の流れが存在しているのである。



最近の湾岸地域の情勢は、スンニー派政権とシーア派住民との緊張関係、若者人口の拡大と不十分な社会の受入枠組みといった長期的な問題群に、巷間よく知られたイラン核開発問題や「アラブの春」に影響された現政権への異議申立て活発化といった新たな課題が加わって不透明の度を増している。そこに加えてインドからの農産物流入が細る若しくは途絶することになった場合、それが食料品価格の上昇という形で貧困層の生活に打撃を与え、彼らの間で昂じた不満が前述の問題群とも絡まり合って各国ひいては地域の安定を大きく揺さぶるという未来絵図を描くことはさして困難ではない(注3)。

それでもひょっとしたら、サウジアラビアやUAE、カタールといった国々は不作のインドに代わる新たな穀物輸入先を確保に成功して上手く事態をやり過ごすかもしれない。だが、ペルシャ湾の油田・ガス田群と世界とを繋ぐホルムズ海峡の安定に決定的な重要性を持つイランはそうはいかないだろう。その要因は核開発問題に伴う国際的な各種制裁の存在だが、わけても中央銀行を含むイラン金融部門が国際的な資金決済支援システムSWIFTから放逐され資金決済の便宜を失ったことは、同国がインドの穴を埋める新規穀物輸入先を開拓する必要性が出てきた時に極めて大きな足枷となると考えられるからだ(注4)。

既にイランでは、経済制裁や世界の穀倉の一つである米国における天候不順等を背景としたトウモロコシの輸入価格上昇がそれを飼料として生産される鶏肉の価格にも波及して国民の不満を昂ぜしめ、政府が鶏肉価格抑制に乗り出さねばならない事態となっている(注5)。そんな所で、インドが雨量不足による不作を理由に穀物等農産物の輸入削減に踏み切った、そしてイランは新たな代替輸入先を見つけられないでいる、という事態が現出したならどんなことになるか。
様々な可能性を考えることができようが、ただ少なくとも、「湾岸地域から世界への安定的なエネルギー供給」にとってプラスになることは何一つ起こらないという予測だけは自信を持って下せる。
ひょっとすると、極端な話、ある人はフランス・ブルボン朝の王妃マリー・アントワネットがこぼした「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」という一言が食糧難に喘ぐパリ市民たちを激昂せしめフランス革命に火をつけたという有名な小話(注6)を思い出し、また別のある人は「中国天安門事件やエジプトのムバラク政権崩壊の影に食料品価格高騰があったのだ」という説に頷く、といったようなことになるかもしれない。

無論、今後の巡り合せ次第でこれら全てが単なる杞憂に終わる可能性もある。だが世界のエネルギー庫ともいえる湾岸地域が、インドの降雨状況という普段意識することも殆どないであろう要素によってもその安定を左右されかねない脆弱性を抱えた地域なのだということには注意が必要だろう(注7)。

注釈
注1.2004年時点のデータを確認してみると、インドの全原油輸入量に占める中東の割合は67%となっている。これが3年後の2007年には西アフリカ等からの輸入量増等を背景に47%強まで落ちてくるのだが、国別輸入量で見るとサウジやクウェート、UAEといった湾岸地域諸国が上位を占めている傾向に変化はない。
注2.たとえば世界第3位のコメ輸入国にたるイラン(2008年時点)にとって、インドは最大の輸入先となっている。
注3.なお湾岸地域諸国の食料自給率を見てみると、2007年時点でイランが84%、サウジアラビアが26%、UAEが0%となっている。もう少し枠組み を拡大して中東諸国となると、トルコが89%、シリアが72%、エジプトが69%、イスラエルが7%といった塩梅である。
注4.企業Aが外国企業Bから物を買った場合、AにBから「X銀行の口座に代金を振り込んでくれ」という請求が来る。そこでAは自分の取引先銀行Yに「今口座にある資金の中からX銀行にあるB口座に支払代金を振り込んでくれ」と依頼する。そこで銀行YはAの口座から代金に該当する金額を引き落とし、次にコルレス契約を締結しているZ銀行に対して「AとBが行った売買取引代金の決済を行うので、そちらに開設した弊行(Y銀行)の口座から代金相当額を引き落として同じ国のX銀行にあるB口座に振り込んでくれ」という旨の連絡を行う。この連絡を受けたZ銀行は言われたとおりにY銀行の口座から代金相当額を引き落としてX銀行にあるB口座にそれを振り込む、という手順で取引が完了する。
SWIFTとはベルギー・ブリュッセルの近郊ラ・ウルプに本拠を置く国際銀行間通信協会が運用する情報システムで、上述の例で言うとY銀行とZ銀行の間で行われる連絡を担っている。これを利用することで決済に伴う事務手続きを大幅に簡略化することができる。そのため、再び上述の例で言えばY銀行からZ銀行に連絡が行った日の翌日にはX銀行のB口座にAからの代金に相当する金額が振り込まれることになる。
この便利なSWIFTから追放される、つまり当該システムを使えなくなるということは、Y銀行がZ銀行に連絡を郵便等で行って実際にX銀行のB口座に代金が振り込まれるまで何日も何日も余計な時間を要するということである。その間、郵送した振込通知が事故に巻き込まれる等して紛失したり、Bで現金が必要になる事態が急に生じたり、或いはX銀行やZ銀行が倒産してしまったならどういうことになるか。恐ろしや、恐ろしや・・・・
なお、2010年時点ではイランの19銀行(中銀含む)、25金融機関がSWIFTに加盟しており、利用件数は年間200万件にのぼっていた。
注5.イランの鶏肉騒動については、Al Arabiyaの2012年7月29日「Iran lowers prices as ‘chicken crisis’ becomes simmering political issue」を参照のこと。なお2004年時点でイランは中東最大のトウモロコシ輸入国であり、その大半が鶏肉生産のための飼料に回されているとされる。
注6.どうやらこの小話は歴史的事実とは到底言えないフィクションの類のようである。ただ、「革命」というものが如何なる理由で起こるのかをこれ以上ない端的さで伝える小話ではあろう。
注7.そうこう書いているうちに、インドEconomic Timesが8月7日付で「インド政府は、民間業者による小麦輸出を禁止するようだ」というニュースが流れてきた。詳細は同紙2012年8月7日「Wheat exports by private traders may be banned」を参照のこと

参考資料
・Al Arabiya 「Iran lowers prices as ‘chicken crisis’ becomes simmering political issue」 2012年7月29日
・Bloomberg 「インド株:総じて安い、雨不足を懸念-マヒンドラ下落 」 2012年7月17日
・Economic Times 「Wheat exports by private traders may be banned」 2012年8月7日
・ロイター 「経済制裁受けるイラン、インド産コメ輸入代金が不払いに」 2012年2月8日
・安全保障貿易情報センター 「CISTEC Journal」2012年5月号 2012年5月
・川島博之 「世界の食料生産とバイオマスエネルギー―2050年の展望」 2008年5月
・日本エネルギー研究所 「インドのエネルギー情勢・政策動向」 2006年7月
・同上 「海外エネルギー動向 インド」 2011年5月
・日本農林水産省 「世界の食料自給率」